「たぶんそうだろう」という論理(クラシック音楽はなぜあんなに長いか)

小学校の算数の教科書を見ていますと、「平行四辺形の向かい合う辺の長さは等しい。また、平行四辺形の向かい合う角の大きさは等しい」と書かれています。こういうのは、いくつかの平行四辺形の辺の長さや角の大きさを、定規や分度器で測ってみて、経験から納得するような書き方がしてあります。いわゆる帰納的な論理なのです。数学といえば演繹的な論理になじんだ人にはかえって小学校の算数の教科書のような記述は違和感を覚えるものなのかもしれません。しかし、世の論理の多くは「たぶんそうだろう」というものです。以下に、私の持論を書きますね。「クラシック音楽はなんであんなに長いのか」。
例として、バッハのマタイ受難曲を挙げます。(前にも書いたことのある話です。すみません。)バッハのマタイ受難曲は、キリストの十字架の場面を描いた、上演に3時間くらいかかる大作です。昔の人は、どうしてこんなに長い音楽を聴いていたのであろうか。あるとき気づいたのです。昔はテレビも映画もなかった。バッハのマタイ受難曲は、「大みそか3時間スペシャル」だったのだと。
バッハの、毎週日曜に上演されたカンタータが、毎週の30分番組です。受難とは、イースターの直前の期間で、年中行事です。「あけましておめでとう(イースターおめでとう)」の直前の時期、すなわち「大みそか」の3時間スペシャル番組だったのです。それはあたかも忠臣蔵を見るかのようでありました。キリスト受難の物語も、宗教的という以上に、「みんながよく知っている話」として取り上げられていた可能性はあると思っています。これはヘンデルの「メサイア」でもなんでも同様です。
そして、バッハの受難曲では、男女が交互にアリアを歌います。これはまさに、紅白歌合戦のようではないか!やはり、バッハの受難曲は、「大みそか3時間スペシャル」であったのだ!
こう考えてみますと、ワーグナーのオペラは、確かに映画のなかった時代の映画でしょうし、なぞが一気に解けていきます。こういう私の持論もあります。「なぜクラシック音楽は長いのか」。
こういった論理を「たぶんそうだろう」という論理(そう考えると筋が通る)だと言うわけです。
小学校の算数の教科書は、しばしばこういう書き方がしてあったりするわけです。帰納的な論理による記述です。
われわれは、三段論法的な論理に慣れすぎかもしれません。「テナガザルはサルである」「サルは動物である」「よってテナガザルは動物である」のようなですね。そうでない、帰納的な論理には、「発見」的なクリエイティヴィティが発揮される必要があります。「三角形の角の和が180°であることを証明できる」ことと「三角形の角の和は常に180°であることに気づく」のには別の能力がいる気もします。なんでも最初に気づく人は偉いです。ニラとレバーがあうことに最初に気づいた人は偉大でしょう!
そのようなわけで、小学校の教科書は、しばしば「たぶんそうだろう」という論理で書かれています。本日はそれを「バッハのマタイ受難曲はなぜ長いか」という例から見て参りました。帰納的な論理も大切にしていきたいものです。