私はかつて大学院で数学の研究をしていました。研究とは「まだ誰も言ったことのないこと」かつ「価値のあること」を言わねばなりませんでした。以下のようなことがありました。(少し専門用語が続きますが、気にせずお読みください。)
あるとき、モジュライ空間のヴァーチャル・コホモロジカル・ディメンジョン(この言葉はあとから知りましたが)が、タイヒミュラー空間の次元の、およそ3分の2まで下がることに気づいたのです。(最初は、タイヒミュラー空間に自由に作用するある曲面の写像類群の部分群の作用でタイヒミュラー空間を割って得られる多様体のコホモロジーの次元の上3分の1くらいが消えていると認識。)新しい論文のアイデアです。私は周囲の先輩、同輩、後輩の皆さんに聞いてみました。しかし、この事実は誰も知りませんでした。ある先輩は「それって『おいしい』んじゃない?」と言いました。「大発見なんじゃないの?」という意味です。私は東大数理におられたその道の大先生に聞いてみることにしました。非常に緊張しましたが、その先生の研究室をノックしました。その先生に自分のアイデアを話してみるとその先生は「それはハラーがスパインをはっているから当たり前だよ。それよりもっと下がるのならおもしろいけどね」とおっしゃいました。私は図書館に行き、該当するハラーの論文を見てみました。そこに描かれた図を見てわかりました。「自分と同じことを考えている!」私が思いついたのは、ハラーのその論文から遅れることちょうど15年でした。
博士課程のオリエンテーションで、ある(先ほどと別の)先生がおっしゃっていました。「皆さん、新しいことを思いつくでしょう。図書館へ行って調べてご覧なさい。まず8割は、もうだれかがやっているものです。しかし、これを繰り返していくと、0.8×0.8×0.8×…で、しまいには自分オリジナルの論文が書けるものですよ」とわれわれを励ましておられました。私の「発見」はまさにそれだったのです。
そして、論文になるためには、もうひとつの条件である「価値のあること」というのを満たさねばなりません。じつは、研究の最先端までたどり着きますと、「まだ誰も言ったことのないこと」ばかりになります。「まだ誰も言ったことのないことを言う」のはとても簡単になります。しかし、そのうち、「価値のあること」を言わねば研究とは言えないのです。これは、クリエイティヴな仕事の全般に言えることだと思います。
漫画家と作曲家を例に取りましょう。
漫画でも、すでに誰かが書いていることを書いてもそれは「まね」ということにしかなりません。高校生がバスケットボールをするマンガなら「スラムダンク」がすでに書いているとも言えるでしょう。ですから、まだ誰も書いたことのないことを書かねばなりません。しかし、「おもしろいもの」である必要があるのです。いかにまだ誰も書いたことのないことでも、おもしろくなければ意味がありません。
作曲で言いますと、もうだれかが作ったメロディなら「まね」「ぱくり」ということにしかなりません。しかし、ピアノででたらめを弾いて、「これは誰も作曲したことがない」と言っても、それは意味をなさないでしょう。作曲家というものは「まだ誰も書いたことがない曲」で、かつ「いい曲」を書かねばならないのです。
そういうわけで、研究というものは「まだ誰も言ったことのないこと」かつ「価値のあること」を言わねばならないのです。これは研究の厳しさですが、その代わり、AIにはできない仕事です。大概のことはAIができる世の中になってきました。これから必要とされる人材は、こういった「自分で考えることのできる」人だと思います。