「わからない」ことは「わからない」と言える大人の生徒さん

当教室での授業の様子を公開させていただきますね。公開に当たり、ご本人様の許可を得ています。
半年と少し前に入門なさった大人の生徒さんです。学生時代に勉強がおできになった生徒さんであるようで、大学の数学をご希望になりましたが、いまは高校の「数学Ⅲ」をご一緒に学んでいます。
先日、無限級数の和の性質について、以下のようなものが教科書に出て来ました。

私は、教科書が証明をとばしているのを見て取りました。大学院のセミナーであったならば、ここは証明をうめてくるべきところです。私は授業の準備をするうえで、ちょっと「卑怯」なことを考えました。ここでは、その生徒さんが、飛ばすとおっしゃったら飛ばすことにし、考えるとおっしゃったらご一緒に考えよう。そう思って、予習を飛ばして授業当日に臨んだのです。
その生徒さんは、私にとって少し意外だったことに、やるとおっしゃいました。そこで、(Zoomの画面ごしに)ご一緒にこの証明を考えました。その生徒さんは、30分くらい考えてギブアップされました。私は、自分の考えた証明をお見せしました。(それが先日のブログ記事です。最後にリンクをはりますね。)その生徒さんはそれをよく読み、納得してくださいました。
その記事が、先日、公開となり、皆さんの反応を見ていて改めて気づかされたことがあるのです。この生徒さんは「わからない」ことは「わからない」と言える生徒さんであること。これは学問の基礎なのですが、この生徒さんは、学問の基礎に忠実でした。「30分くらい考えた」「それでギブアップなさった(ご自身が「できない」と認識なさった)」ことまで含めて、この生徒さんの、学問的な優秀さを示すものだったのです。
私は、いまから十数年前の自分の教員時代の授業を思い出しました。高校生に向けてのベクトルの授業です。私の授業はいつも崩壊していました。生徒が大騒ぎをしているのです。その日も崩壊していました。その理由を、大騒ぎしている生徒に聞くことはできず、私は、近くで聞いていた、私と少し信頼関係にある生徒さんに聞きました。「みんな、どうして騒ぐのだろう。私の言うことが難しすぎるのだろうか」。これに対して、意外な答えが返って来ました。「違います。先生の言うことはやさしすぎるのです。だからみんななめて、大騒ぎするのです」。私はとほうに暮れました。私の言うことは、「やさしすぎて」生徒の皆さんは「なめて」大騒ぎをして授業が崩壊するのだ・・・。
難しいものは、一見、やさしく見えることもあります。当たり前に思えることもあります。そこを決して当たり前だと思わない(現在の)生徒の皆さんに、私は助けられています。
今回の大人の生徒さんの話に戻ります。この生徒さんは、わからないことはわからないと言える生徒さんでした。別のときのことですが、私は以下の関数が、何回でも微分ができることを、松本幸夫『多様体の基礎』に書いてある証明にそって、この生徒さんにご説明申し上げたときがあります。(この証明はきちんと準備しました。)

この証明を終えて、この生徒さんは、わからない、自分の数学的帰納法の理解が甘いのかもしれない、というようなことをおっしゃいました。私は「すごくていねいに準備をしたつもりだけど、通じなかったのか・・・」と思ってしまったことは白状せねばなりません。しかし、よく考えてみると、この生徒さんはこのときも、わからないことをわからないとおっしゃったのであり、その意味で、この生徒さんは、学問的に極めて良心的な、すぐれた生徒さんであられたのでした。
ありがたい生徒さんに出会えたと思っております。私も自分に正直になり、この生徒さんとご一緒に、引き続き「数学Ⅲ」の教科書に沿って学んで行きたいと思っております。
(サムネイルは松本幸夫『多様体の基礎』の表紙です。東京大学出版会さんに使用許可の快諾をいただきました。ありがとうございます!)
(最後にその先日のブログ記事をはりますね。)
