「ローン」の謎。ローンって将来の自分の労働から借りているの?

「ローン」というものについて考えてみました。ローンというものを「将来の自分の労働から借りている」と認識すると、なかなか謎で、よくわからないものです。以下でも最終的な結論は得られないのですが、だいぶローンの本質に迫ることができたのではないかと思い、記事を書いてみることにいたしました。最後に参考文献を5つ、挙げますね。
この夏に、ある若い仲間を誘って、あるプロのオーケストラの演奏会に行くことになりました。チケットはまだ発売されていません。内容は、ジブリの映画音楽をフルオーケストラでやるというものです。インターネットの演奏会の説明には「『もののけ姫』、『千と千尋の神隠し』、ほか」とだけ書かれています。「だいたいなにをやるか、わかるでしょ。皆さんの喜ぶものをやりますよ」と言っている感じの宣伝でしょうね。その若い仲間は、ジブリの映画が好きでした。私はクラシック音楽というか、オーケストラが好きであるわけです。彼を誘ったとき、彼は「いいねえ」と即答しました。私には長いことなかった(いまでもないかも?)ものです。好きなものを好きという能力。行きたいものは行きたいのです。それで、チケットを買うことにしたわけです。
その演奏会は、どの席でも大人3,000円、25歳未満の人は1,000円(身分証明書提示)で、彼は25歳未満なので、ふたりで4,000円します。障害者割引はないみたいです。隣町での演奏会であり、交通費も少しかかりますが、とりあえず、この演奏会には4,000円がかかるとして話を進めましょう。
まず、お金の価値の基本として、4,000円に4,000円の価値はないということがあります。4,000円は、ただの紙4枚です。千円札が4枚。(スマホ決済なら紙ですらなく、スマホの中の数字に過ぎません。)紙としての役割ならば、ティッシュやトイレットペーパーのほうがまだ使えます。鼻もかめないお尻も拭けない紙4枚です。ただ、このお金で買ったチケットを当日、ホールに持って行くと中に入れてもらえて、音楽が聴けるわけです。4,000円の価値とは「ジブリの音楽が、生のオーケストラで聴ける!うれしい!!」という気持ちであったのです。好きなものを好きと言えることが、お金の価値でした。
お金はお礼です。それで、私はアマチュアとはいえオーケストラの経験があるため、その4,000円というのが、どういう人へのお礼になっているか、なんとなくイメージがつきます。そのプロオケの本拠地がどこか知りませんが、たとえば、コントラバスとか、ティンパニとか、大太鼓など大きな楽器は、トラックで運ばねばなりません。それから、弦楽器の弦とか、オーボエやファゴットのリードなど、ひんぱんに替えなければならないものもあり、つまり楽器のメンテナンスにもお金がかかるとか、スタッフの皆さん、そして考えてみるとホールの清掃の人への謝礼まで含めて、その演奏会の開催に向けて働くいろいろな人への謝礼がしめて4,000円であるわけです。これはオケの経験があるから、少し想像がつくわけです。
そして、交通費も、電車の運転の人から、駅のトイレの掃除のかたまで含めたお礼の総額が交通費となっているのでしょう。どういう内訳か、わかりませんが。
話は急に変わるかもしれません。つぎの話は、保険と言われるもの、年金や健康保険など社会保障と言われるもの、福祉と言われるものです。これは、この議論を最初に始めたとき、「ローンと並んで、聖書の時代にはなかったやつだな」と思ったのですが、意外とあったのかもしれないとも考え直したりしています。とにかく現代にはあります。
聖書には、盲人バルティマイというのが出て来ます。イエスによって奇跡的に目が見えるようになった盲人です。(新約聖書マルコによる福音書10章46節以下に出ます。)改めて考えてみますと、聖書の時代に「盲人」と言っていたのは、私みたいな人間を含んでいた可能性が高いとも感じられます。私はメガネをかけています。ひどい近眼で、さらに老眼でもあるのです。メガネがなかったら、私はかなり仕事に支障が出ると思われます。聖書の時代にメガネはなかったと考えられますので・・・。とにかく、バルティマイは盲人でした。「先生、また見えるようになりたいのです」とイエスに言うところを見ると、後天的な盲人です。彼は道端で物乞いをしていましたが、これも、人生の途中で、なんらかの事情で目が見えなくなり、仕事と家を失い、家族を失い、ひとり道端で物乞いをしていたと考えられます。
確かに、これが現代であるなら、バルティマイは国民年金を納めており、目が見えなくなったら障害者手帳をもらって、障害年金が出たのかもしれません。そもそも、われわれが通常「年金」と言っているものも、老齢年金であり、年を取ったら体が弱って、働けなくなってくるので、お金が出るという仕組みであるわけです。同じ理由で、障害者になったら障害年金が出るのかもしれません。こう見ると、あたかも自分で自分を助けているかのようです。自分で払って、自分でもらっているから。しかし、先にも確認しました通り、お金そのものは紙に過ぎません。食べることも着ることもできません。やはり、バルティマイを支えていたものは、具体的な食べものや着るものであったと考えられます。
そう考えますと、仮に聖書の時代にこういう社会保障がなかったとしても、バルティマイは物乞いをして暮らしていました。バルティマイを見て、目が見えなくて仕事ができなくて食えないのをかわいそうに思った人が、バルティマイにお恵みをしていたのです。その意味では、「助け合いの精神」をシステマチックにしたのが社会保障とも言えますので、こういう仕組みがあるかないかにかかわらず、バルティマイを支えていたのは、実際に食べものや着るものを作る人であった、という点はあまり変わらないのかもしれません。(というふうに考え、先日、このブログの議論をある聖書に詳しい仲間にしたところ、旧約聖書には、寡婦や孤児を助ける規定がある、と言われました。確かにそうです。ということは、聖書の昔から福祉があったということになります。どう運用されていたか実態がわからないところまで含めて現代に似ているとも言えるかもしれません。)
そこで、ついにローンの話となります。社会保障は、前に払って、あとでもらう順で、自分で自分を助けているように錯覚するもの、というふうに考えますと、ローンは、前に借りて、あとで払う順で、自分で自分を助けているように錯覚するもの、というふうに考えたのです。このローンというものも、聖書の時代にはなかったものだろうと考えましたが、これもちょっとわかりません。聖書に「銀行」は出て来ます。「それなら、わたしの金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰って来たとき、利息付きで返してもらえたのに」というせりふが聖書に出ます(新約聖書マタイによる福音書25章27節)。銀行と言っても、現代のようにATMがあるわけではないでしょう。まあ、古代の金貸し業者でしょう。ということは、高い買い物をするときに(それこそ家を建てるときとか)、銀行が「あとで払うならばお金を貸しますよ」と言って来るサービスが古代からあったとしても不思議ではありません。意外と昔からローンはあったかもしれないのです。
それはともかく、「自分の将来の労働から借りる」というのはなんとも不思議なことです。じっさい、私のように、人生の途中で、仕事を失い、ローンを返すあてのなくなる人間はいるわけです。ここで、以下のイエスのたとえ話が非常に示唆的であることに気づきました。新約聖書ルカによる福音書の12章13節以下に出る「愚かな金持ち」のたとえです。少し引用します。「それから、イエスはたとえを話された。『ある金持ちの畑が豊作だった。金持ちは、「どうしよう。作物をしまっておく場所がない」と思い巡らしたが、やがて言った。「こうしよう。倉を壊して、もっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまい、こう自分に言ってやるのだ。『さあ、これから先何年も生きて行くだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ』と。」しかし神は、「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる。お前が用意した物は、いったいだれのものになるのか」と言われた』」。少し長い引用で失礼いたしました。ここで着目したいのは以下のポイントです。
まず、金持ちの畑が豊作だったということです。彼はもとから金持ちであり、金持ちがさらに豊かになる話だということです。(加えて、このイエスの話を聞いている群衆は、皆さんとてつもない貧乏人です。)少し想像すると、彼は自分で豊作を確かめたわけではないでしょう。金持ちですから、部下というか、ありていにいうと奴隷が、実際に収穫作業をしていたと考えられます。彼はワンマン社長であり、社員(現代の奴隷)と一緒に収穫したりしないと考えられます。それで、豊作だったわけです。
そして、彼はしばらく考え、倉を壊してもっと大きいのを建て、そこに穀物や財産をみなしまうことを思いつきます。これも彼が手ずから倉庫の増改築をやるわけではありますまい。彼は金持ちですから、金を払って、ひとにやってもらうのです。具体的に倉庫の増改築をやるのは、大工さんだったでしょう。
イエスは大工です。マルコによる福音書6章3節によるとイエスは「大工」で、マタイによる福音書13章55節によると「大工の息子」です。ようするに「イエス家」の家業が大工だったと考えられます。現代でも、医者の息子が医者になって家の医院を継ぐように、おそらくイエスの家は代々、大工だったのでしょう。イエスの父ヨセフも、大工でしょう。まさに、畑が豊作で、倉庫の増改築を依頼してくる金持ちから謝礼をもらって、実際に、のこぎりでぎこぎこ、くぎでトンテンカンと作業をするのが仕事であったと思われます。それで、この話を聞いているのは、貧しい人たちです。この金持ちは、自分で収穫もせず、自分で倉の改築もせず、ただ、お金を払って誰かにやってもらっているのに、あたかもすべて自分でやっているかのような錯覚におちいっているのが「愚かな金持ち」と言われるゆえんではなかったでしょうか。
それでローンの話です。現代日本の多くの人が、ローンのお世話になっていると思われます。家を買うとき、車を買うとき。スマホを買うときも月賦だったりしますね。先述の通り、私はアマチュアとはいえオーケストラの経験があるため、オケにかかるお金はなんとなく内訳を知っているわけです。大型楽器を運ぶときには運搬代がかかるはず、とか。(私には指揮者の経験もあるため、なまじクラシック音楽の指揮よりも、「レ・ミゼラブル・メドレー」の類のポップスの指揮のほうが指揮者としての力量を問われることも知っていたりします。このたびの公演の指揮者は竹本泰蔵さんという人で、映画音楽の指揮でとても有名なかたです。レビューで「竹本さんは―ディズニーの「ファンタジア」で有名な―ストコフスキーが乗り移ったかのようでした」というものもありました。期待したいと思います。)しかし、私はマンションを作るとき、誰に謝礼を払っているのか、ちゃんと知りません。考えてみると、将来の自分の労働から借りていると思うのは錯覚で、いま私が住居に住めているのは、間違いなく、誰かがこの住居を作った、すなわち、大工さんであり、具体的に、のこぎりでぎこぎこ、くぎでトンテンカンとやっておられたかたがおいでになるのです。
私の知り合いに、大工さんがひとりもいないことに気づかされております。建築家はいました。しかし、建築家って、設計するのが仕事であって、具体的にぎこぎこトンテンカンはしないと思います。建築会社に勤める友人もいますが、彼も同様で、彼自身が具体的に建物を作るわけではないでしょう。まして、不動産会社の人にしても、銀行の人にしても、家を作っているわけではありません。
というわけで、私の「ローンとはなにか」を考える旅は終わっていませんが、少なくとも、自分に最も欠けている知識は「大工さん」であることは認識できました。オケと違って、まったくイメージがわかないからです。どこにいくらかかっているのだろう。
ごめんなさい。長い記事であるわりに、中途半端ですが、これで本日の記事を終わりますね。「ローン」というものは不思議なものです。それと、改めて思ったのは、聖書というのは意外と「お金の本」という意味合いもあるのかもしれない、ということでした。以上です!
参考文献
田内学『お金のむこうに人がいる』ダイヤモンド社
安冨歩『生きるための論語』ちくま新書
安冨歩『生きる技法』青灯社
『聖書 新共同訳』日本聖書協会
『聖書 聖書協会共同訳』日本聖書協会