もう四半世紀以上前のこと、私が東大生であったころの話です。東大の便所の落書きはおもしろかったです。「俺の名前は愛飢え男(あいうえお)」で始まる見事な「詩」などあったことも思い出します。インターネットなどほとんどなかった時代です。便所の落書きがSNSの役割を果たしていました。あまりにおもしろいので、ある雑誌が「東大の便所の落書き」を特集したほどです。以下のような印象的な落書きがありました。
「人は何のために生きるのか」という落書きです。それに皆さん落書きで返事を書いています。「誰かに愛されているから」という返事も書いてありました。彼がいかにも東大生らしいのは、そのあとに「したがって誰からも愛されていないやつは死ね」と書いていたことです。さすがロジカルですね。そのなかで私の印象に残った落書きは、はじっこのほうに小さく書いてある「生まれちゃったから生きるんじゃない」というものでした。おっしゃる通りだと思います。
私たちは、生まれる前に「私は生まれたいです」と願書を提出して生まれて来たわけではありません。気が付いたら生まれていたのです。つまり、自分が生まれて来たこと、自分がいま生きていることに、私自身は責任がないということに気づかされるわけです。あえて言うと、私がいま生きているのは、私を生まれさせた神様の責任です。私にはいま生きていることに責任はないわけです。
「自分のせい」というものほど極端に重い「心の荷物」はないと思っています。私は今年で47歳になりますが、つい最近まで、「ぜんぶ自分のせい」だと思ってきました。私は人がいとも簡単にできるようなことがことごとくできません。「だらしがない」ことも「落ち着きがない」ことも「常識がない」ことも「コミュニケーション能力がない」ことも、ぜんぶ自分のせいだと思って47年近く生きてきてしまいました。ようやく「すべては自分のせいではなかった」と悟って、「自分のせい」というとてつもない重荷を下ろしつつあります。
聖書で神が次のように言うところがあります。「私が造った。私が担おう。私が背負って、救い出そう」(旧約聖書イザヤ書46章4節)。神が造ったのだから神が責任をもって救い出してくれるのです。「無責任」とは悪い意味で使われる言葉ですが、まさに私の存在は私の責任ではありません。私の学歴が異様に高いのも私の努力の結実ではないのと同様、私がいまこうして仕事を失って困っているのも私の怠慢の結実ではないわけです。みんな神様のせいです。
こういうのを世間では「開き直り」「恥知らず」「無責任」というわけですが、まさに私の存在に私には責任がないのですから、開き直りでも恥知らずでも言ってもらって構わないわけです。「自分のせい」という極端な重荷をおろして、ご一緒に、無責任に生きていきませんか?