「論語のための論語」「聖書のための聖書」「数学のための数学」はむなしい

15歳のころ、祖父から岩波文庫の「論語」をもらいました。「吾十有五にして学に志す」(孔子は15歳で学に志したらしいです)と書いてあるところから、祖父は私に「論語」を贈ったのでしょう。そのころはまるで論語の意味がわかりませんでした。人生訓、お説教のように読んでいたと思います。考えてみればそのころの私は強烈な「すべては自分のせい」という洗脳の真っただ中にいたのでした。
安冨歩さんの「生きるための論語」という本を手にしたのは、それから3倍以上の年齢を経た昨年、47歳のときだと思います。いま48歳で、読み返しています。読めば読むほどこの本は名著でした。私が言葉にした「大船、どろぶね」という視点から論語を読み直しています。いままでとまったく違う意味に論語が読めます。「己の欲せざる所は人に施す勿かれ」って「自分のしたくないことはするな」という意味だったのか!したいことはしたい、したくないことはしたくない。これこそ大船に乗った人の発想でした。孔子という人は、稀に見る「大船乗り」だったのです。
「生きるための論語」という書名もすてきです。書名が内容を表しています。私は「過(あやま)てば則ち改むるに憚(はばか)ること勿(な)かれ」という言葉を長いこと「間違ってはいけない」という意味に取って来てしまいました。しかし、この言葉の意味は「間違っていたら改めよ」ということであり、人間は間違うことが前提の言葉だったのです。間違っていると分かった時点で改めればいいのです。この言葉だけでも、だいぶ私の「生きるため」に役に立っています。
かつて出版のお仕事をなさっているかたから、書名とデザインで本の売れ行きの8割が決まる、と聞いたことがあります。確かにそうでしょう。YouTubeも、サムネイルとタイトルで、クリックして見るかどうかがほぼ決まりそうです。私のブログも同様です。しかし、タイトルが内容を表していなければ、やがて読者の皆さんは裏切られ過ぎて、去って行かれるでしょう。確かに「生きるための論語」という題は、内容をきちんと表しています。
これにインスパイアされて、私は「生きるための聖書」「生きるための数学」という言葉を思いつきました。私は聖書を読みますが、「生きるための聖書」を学ぶものでありたい。私は数学を仕事にしていますが、「生きるための数学」を学ぶものでありたい。この話を、友人の牧師である関智征(せき・ともゆき)さん(行人坂教会牧師)、および石川有生(いしかわ・ともみ)さん(会いに行くキリスト教会の「ともみん」)に話したところ、おふたりとも共感してくださり、それぞれ「生きるための聖書」という言葉を使いたい、とおっしゃってこられました。もともと「生きるための論語」という言葉は、安冨歩さんの著書の題ですが、いま、おふたりとも「生きるための聖書」という言葉はお使いになっておられます。ありがたいことです。
これに比べてむなしいのが「論語のための論語」「聖書のための聖書」「数学のための数学」ではないでしょうか。「神学論争」という言葉もありますが、これはまさに「聖書のための聖書」を意味する言葉です。「数学のための数学」も同様であり、われわれは学生時代から、どれほど数学の「問題のための問題」を解かされることでしょうか!
ちまたで、古文や漢文を習って何の役に立つのか、といった議論も聞かれます。しかし、このように、「論語」(論語は典型的な「漢文」です)が生きるうえで非常に役に立つことは大いにあるのです。算数・数学も同様です。生きた知恵としての算数・数学を学ぶものでありたいです!
(サムネイルは安冨歩さんの「生きるための論語」(ちくま新書)の表紙です。筑摩書房さんのサイトによると、使ってよいそうですので、使わせていただきました。感謝です。)