「道徳」「モラル」という語の定義の見直しが起きる

「同業者たたきはいけません」と言われます。これを「道徳」あるいは「モラル」ととらえることもできますが、私はまずこれはもっと実際的な教えであるように感じます。とくに自営業をしていたら、同業者たたきは長い目で見て、身を滅ぼすからです。敵は作らないに限ります。

そこで、聖書の例を挙げますが、「人を裁くな」とイエスは言います。これも、道徳的な教えと取られがちだと思います。しかし、これは「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる」(新約聖書マタイによる福音書7章1節以下)と続くのであり、自分も裁かれないために人を裁くなと言っていることがわかります。つまりこれも「同業者たたきはいけません」という言葉に似ていて、「世の中を賢く生きる知恵」なのです。

もうひとつだけ、聖書から挙げさせてください。「悪人に手向かってはならない」(同5章39節)ともイエスは言います。これも、悪人に手向かったらろくなことがないからです。だからこれも道徳というより、世の中を賢く生きる知恵です。

田内学さんの「お金のむこうに人がいる」に書いてあります。「「僕たちの暮らす社会は、一人ひとりが支え合っている」資本主義のど真ん中にいた僕がこんな話を始めたら、あなたは眉をひそめて、僕の腹の内を探るかもしれない。きれいごとを並べて、自分をダマそうと何かを企んでいるのではないかと」(22ページ)。この「きれいごと」というものが指すのはいわゆる「道徳」だと思います。しかし、確かにわれわれの社会は一人ひとりが支え合っています。きのう、私はほかほか弁当で天ぷらを買いました。たとえば、なすの天ぷらにしても、農家の人がかなりの手間ひまをかけて育て、どう流通したのかわかりませんが、最終的にきのう、弁当屋さんで天ぷらになって、私の胃の中に入ったのです。えび天も同様であり、輸入のえびだったとしても、誰かは海で取ったえびであり、どう流通したのかわかりませんが、最終的にえび天になって私の胃の中に入りました。田内さんはそういうことをおっしゃっていると思いますが、経済の話と道徳の話は、かみ合わないような気もするわけです。しかし、まぎれもなくお金の話は道徳の話です。

ここで、「道徳」とか「モラル」という言葉のほうの定義の見直しがいると思ったのです。

「道徳」とか「モラル」というものは、「世の中を賢く生きる知恵」のことではないかと。

私は35年くらい前、中学生のとき(十有五で)「論語」と出会いました。祖父に岩波文庫の「論語」をもらったのです。しかし、長いこと私には「論語」は説教くさい道徳の本にしか思えていませんでした。安冨歩「生きるための論語」を読み、ようやく論語は世の中を賢く生きる知恵の書だと認識しました。

先述の聖書もそうでしょう。聖書も世の中を賢く生きる知恵の書です。説教くさい道徳の本ではなかったです。(「説教」というのももともと教会で教えを述べる意味合いの言葉でしたが、「叱られること」というような意味になっていますね。)

もしかしたら聖書は「経済の本」かもしれません。聖書のメインテーマのひとつに「頼る」ということがあります。多く「聖書は信仰の書」と言われますが、「聖書は『頼る』書」とも言えるわけです。そして、お金とは人に頼るときに使うものです。そして、イエスの話を聞いていた多くの人は貧しい人、すなわち、お金が足りなくて困っている人でした。聖書とは、お金が足りなくて困っている人へ向けた、お金というものを説明する本であるかもしれないのです。少なくともその側面はあると思います。

以上、「道徳」「モラル」という言葉の定義の見直しの話でした。私も含め、貧乏で自営業をする者にとって、これらの話は「きれいごと」ではないということですね。

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