私はかつて中高の教員であり、事務員でした。ある私の先輩の先生で、仲の良い人がいました。とても賢い人でした。いわゆる「ダメ教員」のレッテルを貼られている感じの先生ではありましたが、陽気な先生で、学問への造詣の深いかたでした。あだ名は「財閥」でした。お金持ちだったのです。バツイチで、子どもさんはいませんでした。少し前に、お母様を亡くされました。遺品等をいただいたりしたものです。そして、ちょうど2年前くらいに、その先生は、電車に飛び込んで自殺なさいました。私はそのころ休職中でしたので、知ったのはその半年後くらいでしたが、ショックでした。「あの先生が生きておられたら」と、何度思ったことでしょう。
その先生の自殺の原因は分かりません。「リモートの仕事を苦にして」などと聞きましたが、本当の理由は分からないものです。しかし、私はその先生が「非常なお金持ちであった」ということと「孤独であった」ということが気になるのです。「ひとりぼっちは耐えられない」ということと、「お金は助けてくれない」ということを強烈に思ったのでした。
私は中高の事務員であったと書きました。総務の経験もあります。私立学校でしたから、年金や健康保険は「私学共済」と言われるものでした。私立学校の教職員は、福利厚生が公務員並みなのだと知ったのは休職してからです。(岡山大の准教授から慶応の教授になる人はいるでしょうからね。つまり国立大から私立大。)当時はただ保健証を発行したりする作業で忙殺されていましたが、休職や退職に伴うもろもろのことで、私はだんだん「社会保障」というものを知ることになったのでした。
多くの人が知る社会保障は、歳を取ったら年金がもらえる「(老齢)年金」でしょう。このほか、私のように、障害持ちになったらもらえる(可能性のある)「障害年金」というものもあります。私は最近、障害者手帳をもらって、その手厚さに驚いたものです。これは「級」と「自治体」によりますが、少なくとも私の級で私の自治体ですと「ほとんどすべての公共交通機関の交通費が無料」「すべての診療科の医療費が無料」というものがあります。このほか、駐車料金や高速料金の無料あるいは半額、動物園や水族館の入場料が無料、美術館や映画館の入館料の割引、スマホ料金の割引まであるには驚きました。もっと多くの人が使っている身近なものとして、医療費の3割負担があるでしょう。生活に困ったとき、生活保護というものがあるのも社会保障です。こう見て来ますと、日本の社会保障には、さまざまな矛盾や穴があることもわかって参りましたが、とにかく「困ったら助けますよ」という制度になっているわけです。
しかし、こう見て来ますと、社会保障と言いますのは、ほとんど「お金」であることにも気づかされるわけです。「年金」にしても「医療費3割負担」にしても、私の「交通費無料」「医療費無料」にしても、生活保護にしても、すべてお金です。先ほどの自殺なさった先生のことを思い出します。お金が足りないことよりも深刻なのは「ひとりぼっち」ではないのか。ある私の友人が言っていました。一人暮らしは精神的にきつかったということです。「日曜にしか話す人がいないのはきつかった」と言っていました。(その人はクリスチャンで、日曜には話す相手がいたということです。)人には「相手してくれる人」が必要です。
聖書に、盲人バルティマイという人が出て来ます(新約聖書マルコによる福音書10章46節以下)。バルティマイはイエスに助けを求めるのですが、最新の翻訳である『聖書協会共同訳』によりますと、イエスから「何をしてほしいのか」と言われて彼は「先生、また見えるようになることです」と答えています。つまり、彼は「以前は見えていた」人なのです。見えていたころは、家も仕事もあったかもしれないし、家族もいたかもしれません。それが、人生の何らかの事情によって目が見えなくなり、家と仕事を失い、家族も失って、道ばたで物乞いをしていた人なのではあるまいか。現代であれば、バルティマイは、障害者手帳を手にし、生活保護も受けることができていたでしょう。しかし、お金では得られないものがあります。それは「イエスと出会う」ということです。バルティマイの課題もまた「ひとりぼっち」ということだったことかもしれないのです。「盲人はすぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った」と書かれています。バルティマイにとって、イエスと出会うことが決定的であったことをうかがわせる書きかたです。
イエスと出会って人生が変わった人は現代でもたくさんいます。私もそうかもしれません。お金では買えない価値です。神や人との出会いだけでなく、1冊の本との出会い、1曲の音楽との出会いも、人生を支える何かになり得るかもしれません。社会保障も大事ですが、お金では買えない価値があるということは確かなことであるように思えます。