クリスマスが近くなりました。このブログで聖書の話を出すのはひんぱんですが、また少しお付き合いくださればと思います。最近も出したばかりの、盲人バルティマイの話です。私にとって、すごく大切な話ですので、少し長めですが引用させていただきますね。(引用する聖書はすべて日本聖書協会の『聖書 新共同訳』です。)
一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人が道端に座って物乞いをしていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が𠮟りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ」。盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになって、なお道を進まれるイエスに従った。(新約聖書マルコによる福音書10章46節以下)
目の見えない人が、道ばたで物乞いをしていたという話です。イエスが通ったと聞き、叫びました。「多くの人々が𠮟りつけて黙らせようとした」と書いてあります。もし私がバルティマイだったら、二度と口が利けなかったかもしれません。しかし、バルティマイは、ますます叫びました。なんというあつかましさでしょう。しかも、イエスに呼ばれて「先生、見えるようになりたいのです」と言いました。もうとてつもないあつかましさなのですが、ここまであつかましい人は、ほんとうに見えるようにしてもらえるという、そういう話ではあるまいかと思って私は聖書を読んでいるのです。
聖書には、イエスに癒やしてもらおうと、あつかましくなる人がこれでもかと出て来ます。重い皮膚病(規定の病、ツァラアト、らい病)を患っていた人は、「御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言いました(マルコ1章40節以下)。バルティマイとはキャラの違う人ですが、やはりあつかましい人です。彼も癒やしてもらえます。あるいは、中風(ちゅうぶ。身体麻痺)の人を四人の男が運んで来ます。(四人も友達がいるなんてすごいですね。)イエスの前は混雑していたので、イエスがいるあたりの屋根をはがして病人をつり降ろしました。なんというあつかましさでしょう!このように「友人のためにあつかましくなる人たち」も聖書にはたくさん出て来ます。彼も癒やしてもらえました(マルコ2章1節以下)。
カナンの女というのがまたあつかましいです。娘が悪霊に苦しめられていました。最初、イエスには無視されます。つぎにイエスは「わたしは、イスラエルの失われた羊のところにしか遣わされていない」と言います。それでも女が「主よ、どうかお助けください」と言うとイエスは「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」と言います。それでも女が食い下がると、イエスは「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願い通りになるように」と言います。そのとき、彼女の娘の病気は癒やされました。4度目の正直です。これくらいしつこい人が、実際に娘の病気を癒やしてもらえるのです。1度や2度で引き下がっていたら、この奇跡は起きなかった可能性があります!
もうひとつだけ例を挙げます。「求めなさい。そうすれば、与えられる」という聖書の言葉は有名です。公立中学の掲示板にも書いてあるそうです。しかし、この話の「前の話」はあまり有名ではないかもしれません。この言葉は、マタイ福音書とルカ福音書の2箇所に書いてあるのですが、後者には以下のような前置きが書いてあります。
また、弟子たちに言われた。「あなたがたのうちのだれかに友達がいて、真夜中にその人のところに行き、次のように言ったとしよう。『友よ、パンを三つ貸してください。旅行中の友達がわたしのところに立ち寄ったが、何も出すものがないのです。』すると、その人は家の中から答えるにちがいない。『面倒をかけないでください。もう戸は閉めたし、子供たちはわたしのそばで寝ています。起きてあなたに何かをあげるわけにはいきません。』しかし、言っておく。その人は、友達だからということでは起きて何か与えるようなことはなくても、しつように頼めば、起きて来て必要なものは何でも与えるであろう。そこで、わたしは言っておく。求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる。」(新約聖書ルカによる福音書11章5節以下)
とてつもなくあつかましい人の例です。真夜中に友達の家に行って、パンを3つ貸してくださいと言う!でも、イエスはこのたとえで「求めなさい。そうすれば、与えられる」と言っているのです。聖書って、全力でわれわれに「もうちょっとあつかましくなろうよ」と伝えようとしているように思えます。
世間に足りないのは「あつかましさ」ではないかという気がします。これらの聖書の知恵は、かなり現実的です。私自身、たとえばいろいろな福祉に頼り、友達に頼って生きています。もちろん、嫌がられるときも少なくありません。バルティマイが叱られたように。実際に切れてしまった縁もあります。しかし、それ以上に、思いもかけず親切な人に出会い、道が開かれていく経験もしています。私の感覚では、この「求めなさい。そうすれば、与えられる」というのは、求めたら即、与えられるというようなものではなく、「とにかくノックし続けていたら、思わぬ扉が開く可能性があるから、開けてもらえるまでノックし続けろ」というふうに感じられています。
もう1箇所だけ聖書の引用をさせてください。イエスがある律法の専門家に尋ねられる話です。
「先生、律法の中で、どの掟が最も重要でしょうか。」イエスは言われた。「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい。』これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい。』律法全体と預言者は、この二つの掟に基づいている。」(新約聖書マタイによる福音書22章36節以下)
「最も重要なのはどれですか」と聞かれた人は普通、1つだけ答えるだろうと思います。でも、イエスはここで2つ、答えています。神を愛することと、隣人を愛すること。神と人とが同じくらい大切なのです。これは示唆的です。神に頼るくらい人にも頼ること。神に助けてもらうくらい人にも助けてもらうこと。神に甘えるくらい人にも甘えよう。神様にぐちを聞いてもらうのと同じくらい、人にもぐちを聞いてもらおう。神に依存するのと同じくらい人にも依存しよう。神様にあつかましくするくらい、人にもあつかましくするのだ!
「神」というものを想定なさっていないかたには「神依存」をすすめたくなります。なにしろ神様っていくらでも依存できますからね。際限なく甘えられる存在です。いくらでもぐちが言えるし、神を呪ってもいい。すべてゆるしてもらえるので。でも、私は数年前、病気で苦しんでいたとき、まったく「神依存」ができなかったことがあります。ふとんのなかでひたすらスマホに依存し、スマホを通じて人に依存していました。神様って見えないので、「神と同じくらい人が大事」とイエスは言ったのだと思います。もちろん人に依存するには限界があります。それこそ嫌がられるときもあります。誤解もあります。ときにけんかにもなります。でも、それでも人とのつながりは大事です。イエスが「神と同じくらい人が大事」と言った意味は深いと思います。
聖書の最大のメッセージは「もうちょっとあつかましく生きてみよう」ということだと思います。そして、それは非常に実際的です。私に「社会は厳しいぞ!キリスト教の『博愛主義』などないからな!」と注意した人物がいます。その通り、社会は極めて厳しいのでした。だからこそ、聖書は「貧しくて」「ずるで」「けちな」私たちのために書かれています。聖書とは、机上の空論でもなければ、無味乾燥な道徳の本でもないと思います。聖職者の言う聖書の話がたいがいつまらないのは(失礼)、無自覚的に強者の立場から聖書を読んで、説教などをしているからだろうと思いますよ。
ごいっしょに、ちょっとあつかましく生きていきませんか?さびしいときはだれ彼かまわず電話をかけ、つらいときはスマホに依存し、人に頼って生きていきませんか。わからないことは人に聞きましょう。学生さんなら、教科書を忘れたときはまず隣の人に借りましょうね。「自分のことは自分でしましょう」「人に迷惑をかけるな」などとばかり聞いていたら、人に頼れない人間になってしまいます。聖書の描く人間像は「人間はひとりぼっちで生きることはできない」というものだと思います。もうちょっとあつかましく生きてみよう!