「人生やりたいことをやるべきですよね?」というご質問を受け、考えたことを記事にしたいと思います。やりたいことをするより向いていることをするのがよいと思います。
例を2人ほど出します。
1人は、私の知っているある牧師さんです。その人はあるとき言っていました。「教会って学校じゃないのに皆さん通ってくれる。ぼくの話を聞いてくれる。しかも献金までしてくれる。なんといういい仕事かと思う」と。おそらくその人は牧師が向いています。しかし、以下のようなことがあります。
その人は、いまから6年くらい前に、2か月ほど倒れました。人の話を聞き過ぎたようなのです。前任の牧師さんは、どうやら人の相談に乗るのが得意なタイプであったらしいのです。その人は、人の話を聞くと感情移入してしまい過ぎるタイプのようでした。ドライな人は話を聞くのが得意だったりしますが、その牧師さんはドライでないわけです。お医者さんにも言われたのだろうと思います。以来、その牧師さんは、人の話を聞かなくなりました。人の話を聞くのは他の副牧師に任せて、自分は牧師室にこもって仕事をしていることが多いようです。その教会は、繁華街の中ほどにあり、門を開いておくと際限なく人が入ってくるようです。世の多くの教会が、人が入って来なくて悩んでいるのに対して逆の悩みですが、その牧師さんは、教会の門を閉め、牧師室にこもって説教の原稿の執筆をしています。その牧師さんは、説教が得意です。人の話を聞くのは苦手ですが、しゃべるのは得意なのです。
また、その牧師さんは、独自路線の説教をしています。しばしば攻めた説教をしています。私はそれが嫌いではないのですが、こういうのは好悪を分けるでしょう。しかし、その牧師さんは、もう後ずさりすることがありません。堂々と自分の道を進んでいます。その牧師さんを見ると、「成長」ということを考えさせられます。成長とは、社会にあわせられるようになることではなく、むしろ、本来の自分になっていくことだったのです。その牧師さんは、どんどん本来の自分になっていっています。「自分は自分にしかなれない」というよく聞く言葉を、その牧師さんを見ているととても実感します。
(こういうのって、その教会はじめ、環境によるでしょうから、難しいなとは思います。その牧師さんも、他の教会に転勤になったら、同じやりかたでうまくいく保証はないと思いますね…。)
もうひとり、向いていることをする話の例を挙げたいと思います。ある学校の事務員さんの話です。その人は、もともと数学の教員でした。私ほどではないでしょうが、ダメ教員であったようです。私の知るころは、情報科の教員でした。コンピュータに強いことを生かして、逃げの一手で情報の教員になったものと思われます。それでも思わしくなかったようです。あるときから、この先生は、事務員になったわけです。私も教員から事務員になったわけですが、私は、事務員はますます向いていませんでした。その人は、事務員になったらものすごく向いていました。コンピュータに強いことを最大限に生かして、コンピュータ関連の仕事を独占して、自分がいなければその学校が回らないようにしていました。とても向いている仕事をしていました。しかし、彼は傲慢になっていたのです。まるで自分がかつてダメ教員であったことを忘れたかのようでした。
というわけで、やりたいことをするより向いていることをしましょう。そのためにはたくさんの恥をかくことをもいとわずやる必要があります。私も、これからも恥をいとわず、失敗を恐れず、さまざまなチャレンジがしたいと思っています。そして、傲慢にならないように気を付けたいと思います。自分の向いていることって、自分ではわからないものですよね!