2年前、実家に滞在していました。家族が実家にやって来ます。駅を出て実家の最も近くにあるバス停に停まるバスの時間を調べたいわけですが、路線が複雑でわかりません。私はバス会社に電話しました。バス会社の人は、そのバス停に停まるバスが、何時何分に駅の何番乗り場から出るか、正確に教えてくれました。これはネット検索ではらちがあきません。しかし、バス会社に聞いたら、かなり短時間で非常に正確な情報が得られたのです。
最近、安冨歩さんの「生きるための論語」を読みました。以下のような文が論語に出ます。
- 大廟に入りて、事ごとに問う。或るひとの曰わく、孰(たれ)か鄹人(すうひと)の子を礼を知ると謂うや、大廟に入りて、事ごとに問う。子これを聞きて曰わく、是れ礼なり。
孔子は、礼の先生なのに、(大廟の)礼についてことごとに聞いていたのです。ありていに言って知らなかったのです。そこで悪口を言う人がいます。あの人は礼の先生なのに、質問ばかりしていると。それを耳にした孔子が「それが礼である」と言っています。この箇所の多くの解釈は、孔子をフォローする方向だと安冨さんは言います。実際、いま私がこれをネットからコピーしてきた記事の現代語訳も、孔子が聞いて回っていたのは、慎重にやっているのだという解釈に基づいていました。しかし安冨さんはこの箇所をそう取りません。「わからないことは人に聞くのが礼なのだ」と孔子が言ったというふうにとっています。なるほどね!さすが「人に頼ることを自立という」という本を書く人の論語の解釈です。「わからないことは人に聞くのを礼という」という。
当教室でもときどき話題になります。以下は使用許可をいただいたある小学生の生徒さんのエピソードです。あるとき私がなにげなく「ひし形とはなんですか」とおたずねしますと、長い考えに入られました。その生徒さんは、1時間以上、考えたすえに、結論に到達されました。「4つの辺の長さがすべて等しい四角形」をひし形というのでした。(多くの学校や塾は、当教室より短気だと思います。「ひし形とはなんですか」で1時間待ってはくれないと思います。どうぞお気軽にご入門ください。歓迎いたします。)その生徒さんは賢いですね。真の賢さは学力テストで測れるとは限らないと思います。
さて、「算数の先生なのに『ひし形ってなんですか』とか『四角形ってなんですか』と聞いている人」は賢くないのでしょうか。礼の先生なのに、礼について質問する人は賢くないのでしょうかという問いに似ているかもしれません。
算数や数学を教えておりますと、しばしば統計が出て参ります。小学3年生で棒グラフ、高校1年生で標準偏差。よく出る例が気温であり、「気象庁調べ」などと書いてあります。私はわからないことがあると、たとえば気象庁に電話したりします。気象庁は「なかなかオペレータにつながらない」ということがなく、すぐに人が出ます。これは厚労省も文科省もそうなのですが、あまり気象庁そのものに電話する人は少ないからだろうと思います。そこで私が「1日の平均気温とは何ですか」とおたずねすると、気象庁の人も答えられなかったりして、少し待たされてから、以下のことを聞きました。1時間に1回、1日に24回、気温を観測していて、その平均を1日の平均気温としているそうです(前に聞いたときと答えが違ったぞ。こうして、同じ窓口に何度も同じ質問をするのは有効です)。音楽著作権ならJASRACに聞くことにしていますし、だからバスの時間ならバス会社に聞くのです。
たくさんの人に聞くのをアンケートと言ったりします。われわれもよく「アンケートにご協力ください」と言われたりしています。たくさんの人に依存することを自立というように、たくさんの人に聞くことを、自分で調べていると言います。
もう一度、論語から言葉を出します。
之を知るを之を知ると為し、知らずを知らずと為す。是れ知るなり。
わかっていることをわかっているとし、わからないことをわからないとする。つまり、「私はこれがわかっています。私はこれがわかりません」と言えるなら、それはもうかなりわかっています。安冨さんはそのようにとらえています。私もまさにそれだと思いました。自分のわかっていないことがわかっていたら、それはもうかなりわかっていると言えますよね。それこそわからないことは人に聞けばいいではないですか。
わからないことは人に聞きましょう。孔子によれば、それが礼です。