エジソンはえらい人 そんなの常識

私は教員時代、徹底したダメ教員でした。皆さんも学生時代、きっと「ダメ先生」がいたことを思い出されるのではないでしょうか。私は典型的にそれでした。授業は崩壊し、生徒さんにはなめられ、秋のPTAクラス集会では保護者からの不満が噴出しました。あまりにそれがひどくて、11年、教員をやった挙句、教員をやめされられました。たとえばあまりに聖書に詳し過ぎる人はかえって牧師などは向いていないものです。聖書の研究者になったらいいかもしれませんが。それと同様で、私はあまりにも数学に詳し過ぎて、教員失格なのでした。私は徹底的にできない教師でしたが、ある意味で、その学校で最も「(数学が)できる」教師でした。それを証拠づけるのは、圧倒的な私の学歴くらいしかないのですが…(東京大学大学院数理科学研究科数理科学専攻博士課程単位取得退学)。「牧師」という職業は、ほどほどに聖書に詳しいくらいがよくて、あとは「人間力」の仕事です。教員もそうでして、数学に詳しいのはほどほどでよくて「いかにハッタリで教えるか」とか「生徒間のもめごとを解消する」といった「人間力」の必要とされる職業で、発達障害(であることがわかったのは教員を10年も勤めてしまった40歳のときでしたが)の私には到底向いていない職業だったのでした。

ここで突然、有名人の名前を出します。「モーツァルトは現代に生きていたら、すごいメロディメーカーとなって、ひっぱりだこの人気作曲家だっただろう」というようなかたがときどきおいでになります。私にはそうは思えません。モーツァルトが現代に生きていたら、やはり現代のわれわれの誰も理解できないような前衛的な曲を書いていて、失敗者の人生を歩んだような気がするのです。「自分とモーツァルトを比較するなよ」と言いたくなったかもしれませんが、モーツァルトは典型的に失敗者の人生を歩んだ人です。われわれはあまりにも「モーツァルト=大作曲家」と思い過ぎているだけなのです。

「律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。預言者の墓を建てたり、正しい人の記念碑を飾ったりしているからだ。そして、『もし先祖の時代に生きていても、預言者の血を流す側にはつかなかったであろう』などと言う。こうして、自分が預言者を殺した者たちであることを、自ら証明している」(新約聖書マタイによる福音書23章29節以下)。これはイエス・キリストの言葉ですが、まさにこの「律法学者たちやファリサイ派の人々」の言うことは、「モーツァルトの同時代人であれば、モーツァルトの無理解者にはならなかったであろう」という人たちと同様ではないですか!「いつだってわすれない エジソンはえらい人 そんなの常識 タッタタラリラ」という歌詞もありますが、小学校を3か月で退学になったエジソンの伝記が、現代の小学校の図書館で推薦図書になっているという事実について、誰も何も思わないのでしょうか。この歌詞を書いたのは『ちびまる子ちゃん』の作者のさくらももこさんですが、ある意味でイエスの言おうとしたことと同質のことを言おうとしていると私には思えます。(イエスは痛烈な批判をし、さくらももこさんは痛烈にちゃかしているところだけ違いますが。)

そして、そのイエス・キリストは、その発言の数日後には十字架上で処刑されています。ペトロはイエスを3回、知らないとウソをついて逃げました。最終的にすべての弟子が逃げました。そして、群衆は「殺せ。殺せ。十字架につけろ」(新約聖書ヨハネによる福音書19章15節)と叫びました。私の友人の牧師で、オンライン礼拝で「イエスさま大好きー!」というのがキャッチフレーズの人がいます。なかなか独創的で人気のある牧師で、私も大変お世話になっています。私もパソコンの画面ごしに「イエスさま大好きー!」をやっているのですが、パソコンの前でひとりでやるのはなかなか気恥ずかしいものもあるわけです(笑)。あやしい宗教みたいだし(もっとも私は宗教というのは「あやしい」要素が必ずあると思っていますので、それでいいとは思っていますが)。そこにお集まりの皆さんも、「イエスさまファンクラブ」の皆さんらしいです。しかし、これも現代だからこう言えることであって、当時、われわれがイエスとともにいたら、間違いなく「あいつを十字架につけろ!」と叫んでいるはずなのです。もちろん私も含めて。

本日から教会の暦ではレント(受難節、四旬節)です。珍しく受難節に、キリストの受難について考えました。われわれの合言葉は「イエスさま大好きー!」なのか「殺せ。殺せ。十字架につけろ」なのか。後者であると思うわけです。

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