ドクターイエローを見ると幸せになる?

私はドクターイエローというものを見たことはありません。黄色い新幹線だそうですね。滅多に見ることができず、見ると幸せになれるという話があるそうです。以下は、最近聞いた、AさんとBさんの会話です。
Aさん「私はドクターイエローを見たことがあるけど、幸せにならなかったよ」
Bさん「いや、ドクターイエローを見たことそのものが幸せなんですよ」
この会話を聞いてなるほどと思いました。言われてみると、私の知り合いでも、ドクターイエローを見た人はいるのでした。以下のような話です。小さいお子さんを連れて新幹線のホームにいたそうです。お子さんが熱心に新幹線を見ていると駅員さんが「電車が好きなの?あと5分でドクターイエローが通るよ」と教えてくれたそうです。そこで親子で5分待っていると、ほんとうに黄色い新幹線が通ったそうです。確かに幸せな気分になったそうです。
晴佐久昌英(はれさく・まさひで)神父の本に出て来ました。以下は記憶による引用であり、細部が正確でないことをどうぞおゆるしください。「信じる者は救われるのか」というような題の短いエッセイで、晴佐久神父は最後に「信じる者は救われるというより、信じることそのものが救いなのである」と結んでいたと思います。「ドクターイエローを見たら幸せになれるというより、ドクターイエローを見ることそのものが幸せなのである」という理屈に似ていると思いませんか?
「信じない者は既に裁かれている」と聖書に書かれています(新約聖書ヨハネによる福音書3章18節)。ここでいう「信じる」とは「大船に乗ったような気持ちで安心して生きている」というような意味です。つまり、「どろぶねに乗っている人は裁かれるぞ」と言いたいというより「どろぶねに乗っていることそのものが裁きなのである」と言いたい文であることは、最近、ようやく分かって参りました。おもに幼少のころ、親から「お前はダメだ」という刷り込みを受けて育った子供は「自分はダメだ」という思い込みで育ち、かちかち山のたぬきのように、どろでできたどろぶねに乗っており、それゆえに常に人をバカにし、自慢をしながら人生を歩みがちです。自分が「下」になるとどろぶねから落ちて沈むからです。このようにどろぶねの人は、みんなから嫌がられることになりますが、この聖書の言葉が言いたいことは「どろぶねに乗っていることそのものが裁きなのである」ということです。つまり、どろぶねに乗っている人は、常に沈むことを怖れながら、針山地獄の上を歩きつつ人生を歩んでいるのです。
私は、長いことどろぶねに乗って来ました。そのことはようやく自覚できるようになりました。48年も乗ってしまったので、簡単に降りることができません。しかし、自分がどろぶねに乗っていることは自覚できるようになりました。たくさんの「大船に乗ったような人生を歩む友人」にも出会いました(というか、「その友人が大船に乗っている」ということが認識できるようになった、ということです)。いまの私は、自分が幼少のころから「自分はダメだ」と刷り込まれて来た根強い思い込みをひとつひとつはがしていっているところです。
「ドクターイエローを見ると幸せになるというより、ドクターイエローを見ることそのものが幸せなのである」。この論理を大切にして生きて行きたいです。私のたくさんの欠点に目をつぶり、それでも私と付き合ってくださるたくさんの皆様に感謝しつつ生きて行きたいです!