のび太は、学校では先生から叱られ、ジャイアンにはいじめられて、家に帰ってドラえもんに不平不満を言います。そこでドラえもんはポケットからなにか道具を出すわけですが、じつはのび太にとってのドラえもんの本当のありがたみは、ポケットから何かを出すこと以上に「ドラえもんはのび太のぐちを聞いてくれる」「家に帰ればドラえもんがいる」ということそのものではないでしょうか。
北九州のNPO法人「抱樸(ほうぼく)」理事長の奥田知志さんが「問題解決型」と「伴走型」という言葉で言っている意味は、シンプルに言うと上に書いたようなことです。「ポケットからなにか『奇跡的な』道具を出す」ことが問題解決型であるとすると、「家に帰ればドラえもんがいる」というのが伴走型になるわけです。われわれが期待しているものは問題解決ですが、ほんとうに求めているものは「ともにいてくれること」かもしれないのです。
『×-ペケ-』という漫画で読んだことがある話です。織り姫と彦星が文句を言っています。なぜ、われわれが年に1度だけ会える大切な日に、こんなにたくさんの願い事をかなえなければならないのだ!と憤慨しているのです。確かに私たちは七夕さまには極めてあつかましいです。願い事を短冊に書きまくります。また、私たちはサンタクロースにもあつかましいです。子どもたちはサンタさんに願い事をします。サンタさんってクリスマスイブの1晩で世界中の子どもをまわれるのか心配にもなりますが、とにかく私たちはサンタさんにもあつかましいです。
「いつくしみ深き友なるイエスは」というとても人気の高い賛美歌があります。よくキリスト教式の結婚式などでも歌います。歌ったことのあるかたも多いのではないでしょうか。キリストは目の見えない人を見えるようにし、立てない人を歩けるようにし、空腹の五千人をたった5つのパンで満腹させました。聖書にはそういった「奇跡的な」イエスの姿がこれでもかと描かれています。しかし、この賛美歌はただ「イエスさまは友達ですよ」とだけ歌っており、いわゆる奇跡的な救い主の姿はいっさい登場しません。しかし、この歌が最も人気のある賛美歌なのです。みんな、「相手して欲しい」のではないでしょうか。神様、仏様、イエスさまというのは、「相手してくれる」のです。教会の存在意義はそこにある気がします。そして、教会に集う人々にも相手して欲しくて人は教会に通うものと考えられます。
この「星くず算数・数学教室」の「教室の理念」のところおよび「私の経歴と数学に関する考え(長いですけど)」をお読みくださればおわかりになると思うのですが、当教室の目指すものも「伴走型」です。私は長いこと中高の教員をやり「問題解決型」を嫌というほどやらされてきました。この教室も「私は東大を出ています。お子様をいい中学に入れます」という看板を出したほうがずっとお客さんは来るのでしょうが、それ(いい学校に入れる)は保証できないからこそこのようにしているわけです。その代わり、「伴走」します。ともに考え、ともに悩み、ともに喜ぶのを目標にしています。
私自身も「友達のありがたみ」を実感する日々を送っています。問題は解決しなくても、ともにいてくれる、ともに考えてくれる「友達」に、メンタル面でどれほど助けてもらっているかわかりません。確かに私はお金で困っています。障害でも困っています。しかし、本当に頼りになるのは「友」の存在なのです。
私が子どものころのドラえもんの歌で「空を自由に飛びたいな」「はい、タケコプター!」という歌詞があります。確かに皆さん、ドラえもんには道具を出して欲しいのです。そして七夕さまには願いをかなえて欲しいし、サンタさんには欲しいものを持ってきてもらいたいし、イエスさまには奇跡を起こして欲しいのですよね。みんなが期待しているものはまさにそれです。聖書にも「求めなさい。そうすれば、与えられる(求めよ、さらば与えられん)」(新約聖書ルカによる福音書11章9節ほか)と書いてあります。ここで「求めなさい。そうすれば与えられるかもしれないし与えられないかもしれないしわからない」と書いてあったら聖書として成立しないわけです。もしもドラえもんがのび太のぐちを聞くだけで、ただあぐらをかいてどら焼きを食べているだけの人物であるとしたらマンガとして成立しなくなるのと同じです。
でも、みんな実は誰かに相手してほしいのではないでしょうか。最近、ドラえもんに詳しい人から聞きましたが、そもそもドラえもんというのはセワシくん(のび太の未来の「子孫」)が買った「子守ロボット」だったというのです。どうもドラえもんの本来の役割とはやはり「相手してくれること」らしい。たったいま、このことを調べるために検索したらヒットした記事を執筆なさっているかたも書いていました。「四次元ポケットが欲しいというより、ドラえもんにいて欲しい」と。聖書が言っている「神」というものも、おそらく「究極の『相手してくれる存在』」なのでしょうね(神様に相手してもらっていることを教会では「お祈り」と言っております)。人はひとりでは生きられないのです。