ベートーヴェンの交響曲第7番を指揮した(2016年11月19日)

私は、中高の教員であったとき、その学校のオーケストラ部の顧問でした。その最後の3年間、指揮者を兼ねていました。その最後の本番となった、2016年11月の校内での演奏会の思い出を少し書こうと思います。
私が指揮者になったのは、2014年の春でした。おもにメインの指揮者の先生(コーチの先生)が来られないときの「代打」をしていました。2017年3月に教員でなくなり、翌月から事務員になりましたが、そのタイミングで顧問でなくなり、同時に指揮者でもなくなったわけです。しかし、3年という短い期間で、たくさんの経験をすることができました。この年度(2016年度)が、教員として、すなわち指揮者として最後の年度です。
この年度は、年度の最後の定期演奏会で、ベートーヴェンの交響曲第7番をやることになっていました。1年間かけて、練習が積み重ねられていました。私は、毎週のように練習指揮をしていました。私はこの前の年度で、大きく体調を崩し、休職をしたあとであり、教員としての最後の年度であったわけです。そんな時期の、土曜日に校内で行われる演奏会に、10分くらいの枠をもらって、オーケストラが演奏することがあり、それで、私が指揮することになったのでした。
曲目は以下です。
ベートーヴェン 交響曲第7番イ長調より第4楽章
ヨハン・シュトラウス一世 ラデツキー行進曲
この日は、ほかに、合唱部や、吹奏楽部などの出番があり、後半にゲストを迎える、という秋のコンサートでした。オーケストラ部は、この年度の最後に演奏するベートーヴェンの交響曲第7番の一部を演奏したわけでした。私は、先述の通り、この曲は、練習ではたくさん指揮しましたが、お客さんを前に指揮したのはこれが唯一の経験となりました。
いつものように、部員に講堂の前にスタンバイしてもらって、本番になったら舞台に出て行き、指揮をしました。こういう本番は、2014年の夏から、何度か経験しており、だいぶ慣れていました。それでも、そそっかしいミスはたくさんあったと思います。
本番は、エキストラとして、OBも何人か参加し、「だいぶマシになった」と日記にあります。
じつは、このオケは、この年度、この種の本番で、何回も、このベートーヴェン7番の第4楽章を、いろいろな指揮者のもと、経験してきていました。私は、「安全運転」を心がけました。オケが混乱しないためです。実際、やってみたかった表現はあります。よく覚えているのは、以下の箇所で、往年の大指揮者ストコフスキーがこのようにフェルマータをかけながら演奏している表現です。

この表現は、学生時代に、岡山大学のOBオーケストラの東京公演でも聴いたものです。これは先述のような理由で、安全側を取り、やりませんでした。
全体的に、ゆっくりめのインテンポを保ちました。このオケは、前の年にベートーヴェンの「運命」をやっており、その前の年に、ベートーヴェンの「英雄」をやっていました。すっかり「ベートーヴェンオーケストラ」になっていて、とくに、弦楽器の内声とティンパニの生徒さんに助けられて、インテンポを保った演奏ができました。
さて、ベートーヴェンが終わったあとに、ラデツキー行進曲がありました。これは、この年の夏の、同じような演奏会で、同様に取り上げたものです。おそらくそのときに好評が得られたことから、この日も演目に加わっていたのだと思います。私はそのときも、また、いろいろな機会で、何度もこの作品を指揮することがありました。この前の夏の演奏会で、私ははじめて、この曲を指揮するとき、お客さんのほうを向いて、まるでウィーンフィルのニューイヤーコンサートの指揮者のように、手拍子をうながしつつ指揮しました。それは予想以上にうまくいき、このときがその2回目にして最終回です。「ラデツキーはにこやかに客席のほうを向いて手拍子」と日記にあります。にこやかに、ということが気を付けた点で、それから、手拍子を「切る」タイミングもお客さんに出せたのが進歩でした。
日記には「よかったほうでないの。ラストステージだったかもしれないしね」と書かれています。実際、これは私の指揮者としてのラストステージになったわけです。
貴重な経験をさせてもらったことになります。いまから9年前、40歳でした。いまの自分は想像がつきませんでしたね。
最後に、この前のときに、モーツァルトのフルート協奏曲第2番の第1楽章と、ラデツキー行進曲を指揮したときのブログ記事のリンクをはりますね。

(サムネイルは、これもストコフスキーがこの交響曲にほどこした、イ管のホルンのパート譜への改変です。)