人間には間違う権利がある

インターネットで見た本の紹介がありました。三宅香帆『なぜ働いていると本が読めなくなるのか 』(集英社新書) というものでした。(買ってはいません。すみません。)著者の三宅さんは、本が好きで、大学も文学部に行かれ、本を買うためにはお金がいるので就職をなさったそうですが、実際に会社勤めをすると、朝から晩まで働いて、本を読む時間はなかったそうです。本を買うために就職したのに、仕事のために本が読めないとは本末転倒であることに気づかれた三宅さんは、三年半でお仕事をやめられたそうです。(会社勤めをやめたら本が読めたそうです。いまは文芸評論家としてご活躍になっているとのことでした。)

「過てば即ち改むるに憚ること勿れ」(間違っていたらすみやかに改めよ)という論語の言葉は、私が長いこと誤解して来た言葉です。「間違ってはいけない」という意味にとらえて来てしまいました。「論語」とは15歳で出会い、その3倍以上の年齢である、48歳になるつい最近まで、この言葉の意味は誤解したままでした。しかし、この言葉は「間違ってはいけない」という意味ではありませんでした。「間違っていたら改めなさい」という意味であり、人間は間違うことが前提となっていた言葉だったのです。安冨歩『生きるための論語』を読んで、本来の意味に気づきました。最近、私はかかるクリニックを変えました。これも、この言葉によるところが大きいです。三宅さんが、三年半で会社をおやめになったように、私は自分の間違いに気づいた時点でかかるクリニックを変えたのでした。(そしてこのように、私も仕事をやめたら本が読めるようになりましたね。)

私は、当教室の授業で、間違えてばかりいます。Zoomのホワイトボード(黒板代わり)にもどれほどの間違いを書くことでしょうか。これは私なりのメッセージでもあります。間違えていいのだというメッセージを生徒さんに伝えているつもりなのです。

学校だと間違えたらバツを打たれるせいかもしれませんが、間違うことはよくないことのようにとらえらえるのかもしれません。テレビのクイズ番組でも、すばやく正解する人が賢い人であるかのようです。しかし、賢い人というのは、間違えない人のことではなく、堂々と間違う人のことであったのです。

中学2年生の教科書に書いてある「間違い」があります。「ダランベールの誤り」というものであり、1枚の硬貨を2回投げるとき、起こり得るすべての場合を、①2回とも表、②1回が表で1回が裏、③2回とも裏、と考えて、それぞれ${\frac{1}{3}}$の確率で起きる、とダランベールという数学者・物理学者は考えたそうです。このダランベールという人は、非常に賢い人なのでしょう。「中学生でも指摘できるような幼稚な間違いをした人」でないことは確かです。私も大学院でたくさん見て来ましたが、賢い人ほどはっきりした間違いを言うものでした。

もっと子供さんに堂々と間違う場を提供したいと願っています。そのためには、大人である私たちが、人間には間違う権利があることを、身をもって示すべく、どんどん間違う姿を子供たちに見てもらうのがいいと思っています。子供さんって、大人の言うことはやらなくても、大人のすることはするみたいですからね。堂々と間違いましょう!

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