私は20歳のときから、すなわち27年前から日記をつけています。20歳のときに偶然に偶然が重なってキリスト教と出会う前からつけてありますので、私のキリスト教に出会ってからの歩みがすべて書いてあるというなかなか貴重な日記ですが、正確には「日記」とは言わず「何でも帳」と言います。東大オーケストラの部室にそういうノートが置いてあったのです。「何でも帳」ですから「何でも」バカ正直に書いてあります。書いているときは「こんなにえげつないことを正直に書いていたら、あとから読み返して恥ずかしい思いをするぞ」と思っているのですが、実際に何年後かにその日記を読み返してみると「正直に書いておいてよかった」と思えるのです。「えげつないものを読むと心が洗われる」のです。
私の半年くらい前の「大発見」があります。私はこのままでいいのです。私は私のままでいいのです。こう文字にしてしまうとなんてことはない気がしますが、これは私にとっては大発見なのです。ずっと「私はこのままではダメだ」と思って来たからです。私は貧乏でずるくてけちでひきょうものです。わがままでだらしがなくて、体が曲がっていてメガネがきたないです。でもそれは何も悪くないことに気づいたのです。夢のなかで私は相変わらず叱られて反省しています。そして目が覚めると「やはり私は悪くなかった」と思うのです。
旧約聖書の最初のほうで、アダムとエバが、エデンの園で、神様から食べてはいけないと言われていた木から取って食べて、自分たちが裸であることを知って恥ずかしくなり、いちじくの葉をつづって腰に巻くという話が出て来ます(創世記2章25節以下)。「裸は恥ずかしい(ありのままは恥ずかしい)」と思うことが、人類の最初にして最大の罪(「原罪」)なのです。これは象徴的だと思います。私たちはなぜマウントを取り合うのでしょうか。それは、相手を下げて、自分を上げるということであり、すなわち「ありのままの自分は『低い』『恥ずかしい』」と思っているからではないでしょうか。かくいう私も、東大を振りかざしています。私がもし東大を出ていなかったら、こんなに自分の母校を連呼したかはわかりません。もっとも東大を振りかざすのは私だけではありません。たとえば東大を出ても牧師には成れません。そういう人は神学部のある大学院へ進むわけですが、もし彼(彼女)の学部が東大であるならば、それは必ず経歴に書くものです。「東京大学文学部卒、○○大学院神学研究科修士課程修了」みたいに書くのです。
「ありのままのすがた見せるのよ」という歌が流行ったときがありました。もっと前には「羞恥心、羞恥心」という歌が流行りました。(古い話ですので、若いかたはご存知ないかもしれませんが…。)皆さん、自分を「大きく見せる」ことに疲れておられるのだろうと思います。もっと単純にはハゲを恥じておられるかたがおいでになります。別に悪いことをしてハゲたわけではないから恥じる必要はないはずなのですが、ハゲを恥じておられるかたは多いです。いや、私も男性ですから、その気持ちはよーくわかるのですが…。
皆さん、自分には正直になりましょう。神様はすべてをご存知で、しかもすべてゆるしてくださっています。どれほどの罪でも悪でも、神様はゆるしてくださっています。自分がずるくてけちでひきょうものであることを認めるほどに気が楽になります。あなたも私もなにも悪くないです。なぜならあなたや私をこのように造ったのは神様だからです。「ありのままは恥ずかしい」と思うようになったことが、人類の最初にして最大の罪なのです。
(蛇足を書きますね。このサムネの絵、どういう画家さんがお描きになったものか知りませんが、アダムの局部は隠れていますし、エバは後ろ姿だし…。この画家さんも「裸は恥ずかしい」と思っておいでですね!)