あるとき、小学校の算数の教科書に「森林面積」という言葉が出て来ました。それは教科書の本文ではなく「わくわく算数ひろば」という本論ではない「余談」の部分です。「森林面積」という言葉が定義されずに使われていました。そして前後関係から「森林面積」という言葉はどうやら「森林の面積」を意味するのでした。定義されていない言葉を使うとは、いかに余談とはいえ、教科書らしくないと思いました。
私はかつて中高の教員でした。オーケストラ部の顧問でした。下っ端の顧問でした。しかも私以外の顧問は、オーケストラに詳しくないのでした。「特殊楽器」という四文字熟語でオーケストラにおける専門用語があります。これを筆頭の顧問に言っても通じません。彼は「特殊楽器」と聞くと「特殊な楽器」というふうに捉えてしまうのです。これには参った覚えがあります。私がいくら「特殊楽器」という四文字熟語を言っても、彼は「特殊な楽器」という意味に取ってしまうのですから…。
関数というものがあります。(以下、少し数学の用語が続くかもしれませんが、気にせず読み進めていただいて大丈夫なように書きます。)数に対して数が対応するようなものですね(数以外のものに数が対応しても関数と言ったりしますが細かいことは置いておきましょう)。これが、数に限らず、何かに何かが対応しているものを、関数を一般化した概念で「写像」と言います。「言葉」に対して「意味」が対応するのも、写像(関数)の一種と言えないだろうか、と思ったのです。
そして、数学には「位相」という概念があります。大ざっぱに申しますと、集合(ものの集まり)に「近い、遠い」の概念が加わったようなものを「集合に位相が入っている」と言います。正の実数全体の集合では、1と2は近いとか、1と100はそれより遠い、というような概念です。大ざっぱな説明で申し訳ございません。そして、位相の入った集合から位相の入った集合への写像(関数)で、近いものは近いものに写るものを、連続写像と言ったりするのです。すみません、抽象的な話が続きました。例を挙げますね。
近いものが近いものに写るのです。ある日の時刻に対してある地点(どこでもいいです)の気温を対応させる写像(関数)ならば、近い時刻なら近い気温になるではないですか。これは連続写像(連続関数)です。郵便物(定型の封筒)は、25グラム以内ならば84円です。25グラムをちょっとでも超えたら94円です。急に10円、あがりました。これは25グラムのところで連続でないと言えるのかもしれません。10円くらいなら気にならない程度だと思いますが、25グラムを超えたら急に500円あがるとしたら「連続でない」と感じるかもしれません。これはときどき鉄道に乗っていて、ある駅を超えたら急に運賃があがるときにも感じることだったりしませんか?
なにが言いたいかと言いますと、「言葉」にたいして「意味」を対応させる写像も、暗黙のうちに言葉の集合にも意味の集合にも「位相」が入っていて、連続写像だと思われているのではないか、ということです。
つまり、「似ている言葉は意味も似ている」と認識されているのではないか、ということです。
「森林面積」と書いて「森林の面積」という意味に読ませる教科書の執筆者は、そう思っておられるのかもしれません。(そして多くの人がそうとらえるということは、確かにそう認識されているということでしょう。)
似ている言葉がまったく違う意味を持つとき、それはダジャレのネタになっています。古い例で恐縮ですが、「いとしこいし」の漫才で「フランスから来た一流のシェフ」「車夫?」というのがありました。もっとも「一流のシェフ」と「一流の主婦」は似たような意味かもしれません。わかりませんけど。ごめんなさいね。
本日は「意外なところに連続写像の概念のようなものを見つけた」という記事でした。「近いものは近いものに写る」すなわち「似ている言葉は意味も似ている」という認識のお話でした。くだらなかったらごめんなさいね!