いまの若い方はあまりテレビをご覧にならないと聞きますが、私が小さいころの娯楽のメインはテレビでした。
それで最近、思ったことがあります。古典と言われるものの多くは、かつて娯楽だったものではないかと。
この点について、私が比較的詳しいと言える古典である「クラシック音楽」と「聖書」について、見てみたいと思います。
たとえば、バッハの「マタイ受難曲」は3時間以上もかかる曲です。どうしてこんなに長いものを昔の人は聴いていたのか、長いことなぞでしたが、考えてみるとこれは昔の映画かテレビに相当するのです。
バッハの、日曜日ごとに上演されたカンタータは、毎週見る(聴く)30分番組だったのです。すると受難曲は「おおみそか3時間スペシャル」に相当するのでしょう。受難節は、イースター前の「季節」ですからね。「あけましておめでとう(イースターおめでとう)」の前に見る(聴く)3時間スペシャルだったのです。確かに男女が交互に歌っていて、まるで紅白歌合戦のようでもあります。
クラシック音楽の話はこのへんにしまして、「聖書」のお話をいたします。これは日本では弥生時代くらい前の話です。皆さん1週間のうち1日は休んで(当時も7日に1度が休みでした)、会堂に行き、字の読める人の聖書の朗読を聴いたのだと想像します。たとえばモーセが海を割るシーンなど、皆さんわくわくしながら聴いていたのではないでしょうか。(現代でもモーセの海を割るシーンは映画になります。)「イエス十二弟子」は「真田十勇士」か「白波五人男」か「ゴレンジャー」に相当するのでしょう。「敵をばったばったと倒す話」とか「どっきり番組」みたいなものもありますし、「ちょっと本気でいい話」もたまにあります。
このように、「聖書は昔のテレビだったのだ」と思うとかなり腑に落ちるものがあります。もちろん教訓的な話もありますが、基本的に聖書はエンターテインメントですね。
現代でも、流行るものほど校則で禁止される傾向にあります。ツーブロックは禁止だそうですね(よく知らないですけど。すみません)。そして、バッハは「クラシック音楽(古典音楽)」となり、「聴いている人は立派な人」という感じになっています。聖書を読んでいる人も「立派な人」みたいな感じになっています。もしかしたら、あまり今の若い人がテレビを見ないと「もっとちゃんとテレビを見なさい」と言われるようになるかもしれません。ならないか。