2006年に、ある私立中高に教員として勤めたときから、オーケストラ部の顧問をやらされました。私にはオーケストラの経験があったからです。2014年から2016年の3年間は、指揮者をさせていただきました。指揮者の経験というものは、なかなかないものだろうと思います。たった3年間ですが、いろいろな機会で、いろいろな曲を指揮させていただき、貴重な経験でした。
2015年8月に、ベートーヴェンの「運命」の第1楽章をお客様の前で指揮する機会がありました。高校オープンキャンパスの前座としてオーケストラ部が演奏するという本番です。(あとから考えてみると、こういう本番の経験は貴重です。「定期演奏会」のほうが晴れの舞台のようですが、定期演奏会は内輪の客しか来ません。オープンキャンパスのお客さんは、皆さん学校の説明を聞きに来られたのであって、音楽を聴きに来たわけではないからです。)「運命」とは皆さんご存じの「ジャジャジャジャーン」で始まる有名な曲です。あれを指揮したのです。結果的に、失敗しました。お客さんから見て明らかな失敗と言えるほどの失敗ではなかったものの、私としては失敗でした。少し専門的な話になりますが、再現部と言われるところに向かって、オケは自然にだんだんゆっくりになるのです。ベートーヴェンは楽譜に「だんだんゆっくりにすること」とは書いていません。私は一定のテンポで指揮しようとしました。練習のときも、そのように稽古をつけたつもりです。しかし、実際の本番では、指揮の通り一定のテンポで演奏しようとしたオケと、自然の生理でゆっくりになったオケとに分離してしまい、再現部が崩壊気味だったのです。詳細を語りますとそういうことですが、とにかく自分では失敗だと思いました。
当時、私のこういう話を聞いてくれる友人は、オランダに住んでいるオランダ人のクラシック音楽マニアでした。その日のうちにメールを送ったと思います。きょう、ベートーヴェンの運命を指揮したが、それは成功とは言えない、と。すぐに返信があり、そうだろう、あれはみんな難しいと言っている、と彼は言って来ました。
私にはリベンジするチャンスがありました。翌9月には、文化祭で、30分のステージをこなす予定があり、この運命の第1楽章をはじめ、いくつかの曲を演奏する機会があったからです。しかし、私はその9月の本番は指揮していません。それは例の、極度のストレスによる大ダウンの日々であり、1週間、仕事を休んでいる間がその文化祭だったからです。オケは他の指揮者を立てて本番を乗り切ったようです。私は、リベンジできるなら、失敗から学んで、その再現部では、オケがゆっくりになる生理に逆らわず、オケにあわせてゆっくりにする指揮をするつもりでした。しかし、私にリベンジする機会はありませんでした。ベートーヴェンの運命を指揮したのはその2015年8月のオープンキャンパスの1回だけです。
長いこと、これは、私のなかで失敗の経験でした。悔やまれるような、恥ずかしいような経験でした。この経験の意味が変わったのは、それから5年以上が経過し、2020年の9月に、ある遠い町で夜回りをしているときでした。ふと思ったのです。ベートーヴェンの運命の指揮が難しいということは、世界中の指揮者の言っていることです。あれは、それを肌で経験した、貴重な機会だったのではないか。本番当日の夜に、友人のオランダ人マニアに言ったときにはすでに言われていたことですが、私のなかでこの経験の意味が変わったのは、この5年後でした。「ベートーヴェンの運命を指揮する」というのでも貴重な経験かもしれませんが「ベートーヴェンの運命を指揮して失敗する」というのは、得難い経験ではないか。そう思えてから、この経験の、私のなかでの位置づけがようやく変わったのです。
これに似た例は際限なく挙げることができます。今のは「ベートーヴェンの運命を指揮して失敗する」ということでしたが、つい最近も以下のような経験があったばかりです。
最近、私は当教室の授業料の値上げを行いました。どこも値上げ、値上げで申し訳ないことですが、からだはひとつであり、やむを得ないことでした。申し訳ございません。この値上げについて、就労移行という障害者福祉のMさんという親切な相談員のかたの意見を聞きました。経営にかんする相談に乗ってもらうべきでしょうが、身近にそういう人はおらず、いろいろな相場に詳しい人、マーケティングなどに詳しい、親しい友人らのアドバイスをもとに、最終的には自分で決めたことです。それで、Mさんは言いました。その値段は、塾の値段だと思ったら高いかもしれないが、なんというか専門的な数学が学べるとしたらむしろ安いと感じるかもしれない。受験数学ではなく、学問数学であるというところが価値だ、とおっしゃったのです。
私は、自分が受験指導ができないことを、とてつもない弱点ととらえて来ました。かつて学校に勤めていたころも、とにかく受験指導ができないというところがネックで、苦しんできたのです。だいたいどこの塾も受験指導で稼いでいる。自分は受験指導ができない。これは大変な弱点だと思って来たのです。しかし、もしかしたら私の教えていることが受験指導ではないことは強みなのかもしれない、と思えたのです。Mさんの前の日にも、星くずさんのように本質を教えてくださる先生は稀で、受験指導ならば他でも頼める、とおっしゃった、ある学生さんの生徒さんの親御さんもおられました。ありがたいお言葉です。私は最近、長いこと思い込んで来た、自分は受験指導ができないという大きな弱点を、もしかしたらこれは強みかもしれないと思い始めています。
というわけで、失敗経験がかけがえのないものになることはしばしばあり、弱点が強みになることもあったりするのです。それは、コロっと変わるようなことではなく、ものの見方が変わる瞬間でもあります。私の主治医は、たくさんの患者を診てきているでしょうが、自分ではコントミン1錠ですら飲んだ経験はないと考えられます。精神病になってよかったとは思えませんが、主治医以上の経験をわれわれ精神病患者はしています。まして「東大と東大院を出たにもかかわらず、社会へ出て使えなすぎて、46歳で仕事を辞めさせられる」という経験など、ほとんどの東大卒がしたことのない経験だと思われます。挙げだすときりがないほどこういう現象はあると思いますので、このへんにいたします。皆さんの失敗経験や弱点も、いつか輝きだすことを願って、本日のブログ記事を終えたいと思います。長い文章でしたね。すみません。ここまでお読みくださり、ありがとうございました。