数学とは「コミュ力」のない人間の伝達手段ではないのか

かつてご紹介の投稿をした生徒さんの秀逸なエピソードの続きを書きますね。ご本人および親御さんの許可を得て掲載しています。

小学校高学年のある生徒さんです。学校や塾での成績は振るわないそうです。しかし、親御さんが理解あるかたで、そのことで子供さんを責めたりなさらないようです。親御さんによれば「この子はコミュ力がある」とのことです。

半年前、面積の話をしていました。しかし、数とは何か、よくわかっておられない感じでしたので、学ぶ学年はどんどん下がり、いまは小学1年生の内容まで戻り、「数ってなんだろうね」というような、おしゃべりのような授業をしています。親御さんも、内容が小学1年生まで戻ることを嫌がらないかたで、ありがたいです。

それで、先日、近所にできたという「道の駅」のお話になったのです。生徒さんのほうから話しかけてくださいました。近所に道の駅ができたこと。そこは車が15台から30台くらい停められること。校庭の半分くらいの広さであること。はからずも「面積」の話に戻っています。親御さんは「コミュ力」とおっしゃいました。そのつぎの授業は、その道の駅の話の続きをいたしました。

その道の駅は、公園とスーパーをあわせたようなものであること、また、できたばかりは人が行くが、1年後には廃れているようなものであること、ということがその生徒さんの説明でわかりました。私は以下のような問いをしてしまいました。その道の駅が、仮に公園もスーパーもなく、すべて駐車場だったら、何台くらい停められそうかと。その生徒さんは答えられませんでした。後述の通り、これは当たり前であり、私の質問が愚かなのでした。

私の母校である高校は、かなり広く、12万平米あると聞いていました。12万平米と言って、ぴんと来た人はいません。物理学の博士を持った元同僚も、ぴんと来なかったようです。しかし、これを改めて考えてみますと、平米という単位は平方メートルですから、12万平方メートルということは、かなり長細い長方形となりますが、120メートルかける1000メートルの長方形の面積に等しいということです。確かにこう考えると広い高校であったと言えると思います。しかし、つぎのようにも考えられます。300メートルかける400メートルの長方形の面積とも言えるということです。高校卒業から30年くらいがたちますが、こう考えたことはありませんでした。そして次のことにも気づかされます。すなわち、「120メートルかける1000メートル」と「300メートルかける400メートル」では受ける印象が違うということ!これは、何人かのかたに聞いてみましたが、確かに皆さん、この2つの表現からは、違う印象をお受けになるようです。私は「面積」というものを理解していなかったのだ!

その生徒さんと、いろいろな「おいしい」「寒い」「赤い」などの形容詞について「どちらがおいしいか」のような会話をしておりましたが、考えれば考えるほど、私は日常生活のいろいろなものをいい加減に扱ってきていることに直面せざるを得ませんでした。その生徒さんに「頭の痛さを人に伝えるには?」とおたずねすると「1から10で10」と即答なさいました。

考えてみますと、「車が15台から30台停められる」「公園とスーパーをあわせたようなもの」という表現で、どのくらいの規模のどういったものか、ちゃんと伝わっています。「1年後には廃れているようなもの」と言うことによって「それほどおもしろくないところ」という情報まで伝わっています。これは「コミュ力」ではないのか。

私には発達障害(自閉症スペクトラムと注意欠如多動性)の診断がくだっています。障害者手帳も持っております。私は空気が読めな過ぎて(すなわち「コミュ力がなさすぎて」)1年半前に仕事(私立中高の事務員)を失っています。私は東大理学部数学科と東大大学院数理科学研究科を出ています。同じ東大数理の仲間でプロの数学者となった者が、かつて私の勤めていた高校の生徒さん向けに書いてくれた文章のなかに「数学は伝える学問です」という一文がありました。その生徒さんは、私などよりはるかにきちんとお金の計算等ができる「普通の」大人になられるのではないかという気がいたします。「数学とはコミュ力のない人間の伝達手段ではないのか」と改めて思わされるのです。

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