新年の抱負が言えない

私には、1996年8月からつけている日記があります。最近、読み返していて気が付いた点です。2001年の正月、私は教会の当時の青年会の集いに出席しています。みんなで新年の抱負を言い合ったようですが、どうやら私だけが新年の抱負を言わなかったようなのです。そのころは、修士論文の提出、博士課程への進学という、大きなイベントがありました。新年の抱負はいくらでも言えそうなものです。それから四半世紀が過ぎるいま、読み返して、それは、私の「自分のしたいこと、好きなこと、嫌なことが言えない」という典型的な「症状」であることが分かります。
私は、長いこと、食べ物の好き嫌いがありませんでした。いまもありません。これは、自分の好きなものが言えないという「症状」であることを認識するに至りました。たとえば、私はコンビニのおにぎりでは「昆布」が好きでした。しかし、最近、それもあやしいと思うようになりました。私は昆布のおにぎりなど、好きではないのではないか。長いこと、自分にうそをつき続けた結果、自分がほんとうは何が好きなのか、何がしたいのか、わからなくなっているのです。これは、このブログ記事に書ききれないほど、例が挙げられます。「好き」と「執着」は違います。私の「好き」はしばしば執着だったのかもしれません。ともあれ、私は自分が何をしたいのか、自分は何が嫌なのか、長いこと言えなかったのです。いまでも言えません。
新約聖書マルコによる福音書の、10章の25節以下の「ゼベダイの子ヤコブとヨハネの願い」の話と、その直後の盲人バルティマイの話は、じつは対の話であることに気づいたことがあります。バルティマイの話は、マルコによる福音書の一連の奇跡物語の最後を飾る話です。その直前に配置された「ヤコブとヨハネの願い」という話は、バルティマイの話とつながっていました。いずれの話も、イエスに願いごとを言う話なのです。イエスの弟子であるヤコブとヨハネは言います。「先生、お願いすることをかなえていただきたいのですが」。イエスが「何をしてほしいのか」と言いますと、二人は「栄光をお受けになるとき、わたしどもの一人をあなたの右に、もう一人をあなたの左に座らせてください」と言います。イエスは「あなたがたは、自分が何を願っているか、わかっていない」と言います。
これに対して直後のバルティマイ物語では、盲人バルティマイにイエスが「何をしてほしいのか」(さっきとまったく同じせりふ)と言いますと、バルティマイは「先生、目が見えるようになりたいのです」と言いました。これに対し、イエスは「あなたは自分が何を願っているか、わかっていない」とは言いません。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った」と言います。バルティマイは、すぐに見えるようになりました。バルティマイは自分の願っていることがわかっていたのです。目が見えるようになりたい。
最近、読んだインターネットの記事です。小学校高学年の男の子の話です。エリートサラリーマンであるらしい教育熱心な父親がいて、学校から帰ると、塾や習い事で大忙しだそうです。あるとき、この男の子は、サッカー教室に入りたいと母親に言います。母親はいいことだと言いますが、父親は反対します。サッカーは将来の役に立たない。それよりも英語の塾へ行け。ここで、その男の子が父親に反論します。自分はサッカーがやりたいのだと。父親は思い直し、子供の言う通り、子供をサッカー教室に通わせたそうです。
これは、父親も母親も子供も、愛情のある、おおらかな家族です。この子は、自分で自分のやりたいことが言えました。それに反対する父親に、はっきり自分の意見が言えます。親が間違っているとき、親に逆らえる子供は、親から愛された子供でしょう。言われて思い直した父親も愛情があり、母親も愛情があります。いい話です。
この話をお読みになりますと、皆さん私のことを病的だとお思いになるかもしれません。しかし、私はここまで言語化したのです。言語化できていなかった四十数年のほうが病的でした。いまの私は、このことに気が付いているだけ、救いがあります。私は「目覚めた(目覚めつつある)どろぶね乗り」なのです。
今年の正月も、私は新年の抱負は言っていません。しかし、あえて新年の抱負を言うなら、自分のほんとうの気持ちを言える人間になりたいです。自分の内なる声を聞き、自分の本心に素直に生きたいです。