新約聖書ルカによる福音書の出だしのほうは昭和的なギャグマンガ風に書いてある

先日、新約聖書の「ルカによる福音書」の出だしのほうを読んでいて、これが、昭和的なギャグマンガのテイストで書いてあることに気づかされました。その話を少し書きますね。(聖書のマニアックな話となります。しかし、あまり聖書に詳しくないかたにも楽しんでいただけるように書きたいと思います。)
ルカ福音書の1章、いわゆる受胎告知の場面で、以下のように書いてあります。
「そのおとめの名はマリアといった。天使は、彼女のところに来て言った。『おめでとう、恵まれた方、主があなたと共におられる。』マリアはこの言葉に戸惑い、いったいこの挨拶は何のことかと考え込んだ。」(ルカ1章28節、29節)
この、マリアが戸惑う場面の、ちょっと大げさな書き方で、ぴんと来たのです。このあたりの聖書の全体が、昔のおもしろマンガの感じで書いてある。昔のマンガでは、冷や汗をかくにしても、ものすごく大きな水滴の冷や汗をたらしています。また、ケンカをして、なぐられますと、たんこぶができますが、それがまた、そんなに大きなたんこぶは現実にはあり得まいというほど、巨大なたんこぶができるものです。そんな感じで、マンガのように大げさに書いてあるのが、この「マリアのびっくり」ではないかと思ったのです。
それに気づきますと、まずこの「天使が出て来て『おめでとう』と言った」という場面そのものが、マンガ的であることに気づかされたのです。いきなり天使が出て来て「おめでとう」と言ったら、たまげるものです。あたかも、ある日、勉強机の引き出しが開いて、ドラえもんが出て来るようなものです。それを見たのび太がびっくりする。このように、この場面はマンガの第1話的です。
「おとめ」という言葉は、日常で使わない言葉になっていると思います。マスオさんは28歳であり、サザエさんは24歳であると聞きました。波平さんは54歳でしたっけ。少し昔のアニメでも、これくらい年齢については現代の感覚と違うものがあります。「十五でねえやは嫁に行き」という歌は、明治時代くらいの歌でしょうか。浦島太郎も、おそらく現代の高校生くらいなのだろうと思います。それで、おそらくマリアは、12歳か13歳くらいなのだろうと思うわけです。このくらいの年代の女の子を「おとめ」と言ったのではないかと。
それで「ごく普通の女子中学生に、ある日、突然、起きたこと」という設定そのものが、マンガ的であるとも言えるわけです。先述ののび太も、ごく普通の小学生でありました。このあとマリアは、ごく普通の少女から、イエス・キリストの母という、すごい生涯を歩むことになります。
それで、ルカ福音書の出だしあたりで、ほかにもマンガ的である場面が思い当たります。2章の、神殿での少年イエスの話。これは、「イエスさまは幼少のころから百点満点だったのです!」と言っている話だと思います。12歳のイエスが、神殿で、律法の学者と対等にやりとりしていた話です。(ということはマリアは24歳くらいか。)当時の学者は、「勉強ができて、高い地位にいる人たち」ですから、エリートです。そういう人たちと、12歳にして対等に話していた場面ですから、これは、「イエスさまって、幼少のころからさぞや賢かったのでしょうねえ」という感覚から書かれている場面であると思うわけです。この話はルカ2章の41節以下に記されています。
そして、4章です。イエスの宣教開始から間もないころの場面で、故郷のナザレの会堂でイエスが話した場面です。イエスは巻物の聖書を朗読し、話し始めます。少し引用します。「そして、言われた。『はっきり言っておく。預言者は、自分の故郷では歓迎されないものだ。確かに言っておく。エリヤの時代に三年六か月の間、雨が降らず、その地方一帯に大飢饉が起こったとき、イスラエルには多くのやもめがいたが、エリヤはその中のだれのもとにも遣わされないで、シドン地方のサレプタのやもめのもとにだけ遣わされた。また、預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病を患っている人が多くいたが、シリア人ナアマンのほかはだれも清くされなかった。』これを聞いた会堂内の人々は皆憤慨し、総立ちになって、イエスを町の外へ追い出し、町が建っている山の崖まで連れて行き、突き落とそうとした。しかし、イエスは人々の間を通り抜けて立ち去られた。」長い引用ですみません。イエスは何を言って、こういう大きなひんしゅくを買ったか。
少し考えてみました。旧約聖書の有名な話が出ています。これを新約聖書で同じように考えますと「イエスの時代に盲人はたくさんいたが、バルティマイ以外は癒されなかった」というふうになるか、あるいは、再三のび太の例で恐縮ですが「のび太の時代に、学校で0点ばかり取って先生に叱られガキ大将からいじめられる小学生はたくさんいたが、のび太以外のところで、未来からネコ型ロボットがやってくることはなかった」というところか、あるいは「昔々、正直じいさんはたくさんいたが、花さかじいさんのほかに、枯れ木に灰をまいて花が咲いたおじいさんはいなかった」というべきか、そういう話だろうと考えました。しかし、それで「皆憤慨し、総立ちになって」というほどのことが起きるとは思えません。「のび太のところ以外に未来からネコ型ロボットは来なかった」と言って憤慨するのは、よほどのテレビの見過ぎの人かもしれません。そこで思いました。みんな、熱心に「アーメン、主イエスよ、来てください」と祈っている集会に行って「二千年、来ていませんけど」と言って、すごいひんしゅくを買うような状況ではないかと。そうです。しかも、この場面の全体が、昭和的なおもしろマンガ風に書いてある。崖から突き落とされそうになった次の瞬間に、いきなりイエスは人々の間を通り抜けて立ち去っています。この、瞬間移動みたいな場面を「マンガ的にスーパーマンみたい」と書いておられたのは、新約聖書学者の田川建三さんです。この場面は、専門家でも、マンガ的であると言っている人はいたわけです。ますます、これらの場面はマンガ的です。この4章の「ナザレで受け入れられない」話は、「しっちゃかめっちゃかで、支離滅裂で、傑作な話」と書かれていますので、あたかも、天才バカボン的と言いますか、ルパン三世的であると言えます。この場面は、そういう場面であったわけです。
これらの話はいずれもルカによる福音書の最初のほうに集中しています。キン肉マンのように、あるいはドラゴンボールのように、書き始めはおもしろマンガ的で、だんだんシリアスになっていったマンガはあるわけです。著者のルカも、受難や復活に向けて、だんだんシリアスになっていくのかもしれません。そこは私も未検討です。またよく観察しながら、続きを読んで行きたいと思います。
というわけで、新約聖書ルカによる福音書の最初のほうは、昭和的なギャグマンガのテイストで書いてある、ということに気づかされた話でした。マニアックな話ですみませんでした。本日は以上です!