百発百中でできない限り信用されない「障害」

2019年11月、コロナの流行するちょっと前、私は「発達障害セミナー」に行きました。これは私のような発達障害の当事者が行くようなところではなく、会社の人事のような、発達障害の人を雇う側の人のためのセミナーでした。私は当時、ある中高の事務員で、総務に勤めていましたが、このセミナーのお知らせが回ってきました。私は上司に行きたいと述べましたが、上司は、これは職場に還元できないと言い、これに行くなら有休を取って自腹で行けと言われました。当日、私は有休を取って、高い参加費を払って出かけて行きました。ワークの多いセミナーであり、私はその場ですっかり「スター」になってしまったのですが、その講演会の最初に、講師の先生が、発達障害の人に障害特性に逆らったことをさせるのは、車いすの人に階段で2階へ昇れと言っているようなものだ、と説明しました。私は直観的に違うのではないかと思いましたが、その場では言葉になりませんでした。

それよりもっと前のことになります。佐村河内守(さむらごうち・まもる)さんという自称作曲家がいました。古い事件なので、お若いかたはご存知ないかもしれません。彼は耳が聞こえないという話でした。そして、じつは自分で作曲していないのではないかという疑惑が持ち上がりました。佐村河内氏は記者会見を開きました。その中で、記者の質問に、手話通訳が終わる前に答えてしまい「聞こえているではないですか」と突っ込まれる場面がありました。私はここで佐村河内氏の評価は保留しておきます。私が着目したいのは世間の人の障害者を見る視点です。耳が聞こえない人は百発百中で聞こえないのでないと世間の人は納得しないのではないか。

私は、発達障害の障害特性として、電気のつけっぱなし、冷暖房のつけっぱなしなどをよくやります。部屋も散らかり放題です。しかし、「電気のつけっぱなし」は百発百中でやらかすわけではありません。消すときもあるのです。でも、つけっぱなしにすることも多いのです。先ほどの「車いすの人が階段で2階へ昇れない」のは、百発百中で昇れません。百発百中でできない障害は、世の人にも障害だとわかってもらえやすいです。しかし、「できるときもあります」という障害は、なかなかわかってもらえないのではないか。

私は「色弱」という色覚障害でもあります。ピンクと灰色の区別はつきづらく、黄緑とオレンジも濃さが同じならほとんど同じ色に見えます。ボールペンのように細いものですと、黒と赤の区別もつきづらいです。しかし、白黒に見えているわけではありません。私が色弱だと知った人から、赤を指さされ「これ何色?」と聞かれ、私が「赤」と答えると「見えているじゃん」と言われることもあります。また、私が家族のはしの色を(わかりづらいと言いつつも)見分けて配膳したりすると、やはり私には色が見えているのではないかというふうに健常者の皆さんからは思われるようです。これも、私が視界は白黒に見えていて、色は百発百中でわからない状態でないと理解してもらえないということではないでしょうか。

車いすの人も、階段で2階へ昇れる日もあるとしたらどうでしょう。きのうはたまたま昇れました。きょうは昇れません。配慮してくださいと言っても「きみ、きのうは昇れたよね?」と言われるのではないでしょうか。

このように、世間の人が障害者に抱いているイメージは「百発百中でできない人」ではないかという思いが私の中にあります。「できることもあります」というのは、確かに障害特性のひとつです。できることもあるのです!私は人並みのことがことごとく人並みにできないタイプであり、統合失調症と自閉症スペクトラム障害(発達障害)で、精神障害者手帳の2級を持っていますが、このようにオンラインで数学の授業をすることはできます。百発百中でできない人だけを障害者と見なさないでください!

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