私に「わからせる」ことはできないのかもしれません

私は、じつは「わからせる」ことができないのかもしれない、と、算数や数学をお教えしていて、無力な感じになる場合があります。とくにお子さん。私の話は、どう聞いても「算数の先生」のいう「算数の問題」にしか聞こえないのかもしれません。子どもの退屈はとめられません。子どもさんは、わかりません。とくに、結果を求める親御さんには申し訳ない気持ちになります。

これは、大人の生徒さんでも同様でして、私は「なにがなんでもわからせる」ことは苦手です。もともと中学・高校の学校の教員をしていて、「わからせる」ことは極めて苦手でした。

ところが、結果として私の授業を聞いて、おわかりになる生徒さんはおいでになります。それは、私がわからせたというより、その生徒さんが自分でおわかりになったケースです。

私自身の習い事の経験として、フルートのレッスンを受けていた、ということがあります。とても実力のおありの先生でした。先生のおっしゃることを地道に実行して、私は結果的にフルートがうまくなりました。しかし、これも、その先生が私を「うまくさせた」わけではないと思います。私が自分でうまくなったのです。ただし、私は、自分がうまくなったのは、ほかならない先生のご指導の賜物だと思っているわけです。

聖書で、イエス・キリストに奇跡的に病気を癒やしてもらった人が、しばしばイエスに「あなたの信仰があなたを救った」と言われています。イエスとしては、自分が救った自覚はないのかもしれません。イエスに頼る人も、結局は自分で自分を癒やしているのかもしれません。(「イエスさまのおかげです」と認識していたかもしれませんが。)

「お金のむこうに人がいる」(田内学)という本を読んでいて、大阪城を作ったのは誰か、という歴史のテストで、「大工さん」と答えても正解にはならず、「豊臣秀吉」と答えなくてはマルはもらえない、という話が載っていました。確かに、大阪城を作ったのは実際には大工さんでしょう。しかし、石垣を作ったのは大工さん(?)であるとしても、「石そのもの」を作れる人はいないはずです。同様に、お米農家のかたでも「お米そのもの」は作れないはずです。「石そのもの」「お米そのもの」を作るのは、あえて言えば「神様」としか言いようがないと思います。

当教室で、倍数や約数といったものの本質を「わかった」という生徒さんはおられました。これは、学校教育では得られない学びであると言えるとも思っています。当教室が、個人指導であり、おひとりおひとりに合わせた学びを提供できるゆえの、数学の本質的な理解に到達することができるという、当教室のプラスの面が出ているとも言えます。これは、学校教育では得られない「学び」であると自負しております。

「馬を井戸に連れてくることはできても、馬に水を飲ませることはできない」という言いかたもあります。私に「わからせる」ことはできないのかもしれません。数学に限らず、わかると楽しいものですが、わからないというのはなかなか精神的に大変です。しかし、わかったときの喜びは大きいものです。星くず算数・数学教室では、本質的な学びを希望するかたに、伴走することができます。ご一緒に考えましょう。ほんとうの学問の喜びに接することができるかもしれません!

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