聖書に「あつかましい」という言葉が出ない理由

過去にも何度か書いていますが、私は世間で最も足りない要素は「あつかましさ」だと思っており、かつ、聖書というのは「あつかましさの推奨の書」だと思っております。にもかかわらず、聖書には「あつかましさ」あるいは「あつかましい」という言葉がいっさい出ないのですね。これについて、以下の2つの理由が考えられます。

ひとつは、「あつかましさの推奨の書」はあつかましさを強調しない、ということが考えられます。私の友人の牧師が言っていましたが、イエスはめったに「愛」という言葉を言わなかった、という指摘があります。これはなかなかもっともです。親切な人は親切ぶらないものです。「あなたのためを思って」という人はためを思っていません。「祈っています」という人は祈っていません。同様に考えると、聖書にいっさい「あつかましさ」という言葉が出ないのは、かえって聖書があつかましさを推奨する書だということの証拠ではないかとさえ思えるわけです。これがひとつです。

もうひとつの要素として、あつかましさというものがしばしば無自覚的であることがあるのではないかと思います。

あつかましくしようと思ってできるわけでもなく、逆に、あつかましくしようとしていないのにいつのまにかあつかましくなっているのが「あつかましさ」ではないかと思うのです。「ずうずうしい」という言葉にそれは表れています。ずうずうしいというのは、本人は無自覚だから言う言葉です。

先ほどの友人の牧師はよく「よかったら迷惑をかけてください」と言っています。それでありがたく迷惑をかけられる面は確かにあるのですが、基本的に、迷惑をかけようと思ってかけられるものではありません。逆に、迷惑をかけまいと思って、あるいは、迷惑はかけていないつもりで、迷惑はかけているものです。「われらに迷惑をかけるものをわれらがゆるすごとく、われらの迷惑もゆるしたまえ」。有名な「主の祈り」を少し改変してみました。主の祈りは、人が迷惑をかけることは前提なのです。「決してご迷惑はおかけしません」と主の祈りは祈りません。

もう2年くらい前のことになります。北九州の奥田知志牧師が、一家そろってコロナの濃厚接触者となったことがあります。以下の話は週報で読みました。奥田牧師は、「北九州を『助けて』と言い合える町へ」と言っています。さて、一家そろって濃厚接触者となった奥田さん一家は、ずっと家に閉じこもりました。奥田さんは教会に住んでいます。濃厚接触者なので外に出られなかったのです。家には食料品がなくなってきましたが、だれも買い物に行けません。奥田さんの教会には、シェルターがあります。困っている人が、身ひとつで泊まれる一室があるのです。私も泊めていただいたことがあります。奥田さんに助けてもらっているある若い女性がそのとき泊まっていました。彼女が奥田さんに「買い物に行ってあげようか?」と言ったそうです。なんでも、電話しながら「それはレタスじゃなくて白菜だ」とかいうようなやり取りをしつつの、大変な買い物であったそうですが、奥田さんは「助かった!」と思ったそうです。私はこの一連の話を読みながら、以下のように思っていました。

つまり、奥田さんが「ねえ、誰も外出できなくて困っているんだよ。買い物に行ってくれない?」と彼女に頼んだ話ではないのです。彼女のほうから「買い物に行ってあげようか?」と言われて奥田さんは「助かった!」と思っているわけです。あんなに「もっと『助けて』と言いましょう」と言っている奥田さんもまた「助けて」が言えなかったのです。あつかましさとはこういうものだと思います。あつかましくしようと思ってできるわけではない。

だから、聖書には「もっとあつかましくしましょう」とは書いてないのではなかろうか。書いてできることではないから。ただひたすら聖書は、あつかましくイエスに頼って癒やされた病人や障害者を描き続けるのだと思います。

目次