自分で自分の機嫌は取れない

あるYouTuberが言っていました。機嫌の悪い人はみんなから嫌われますよ。いつも上機嫌で!自分の機嫌は自分で取れ!という10分くらいの「お説教」でした。しかし、私は直観的にこれは少なくとも私には無理だと思いました。私はぐちを言わずにはおられません。世の中は不公平で理不尽だからです。せめてぐちを言うと少しすっきりするという話を、以下の聖書に出て来る例からいくつか挙げたいと思います。

(お読みくださればおわかりいただけると思いますが、以下に続く聖書の話は、「聖書の話がしたくてしている」というより、「ぐちを吐く話の例を出している」だけだということがだんだん明らかになっていきます。)

マルタとマリアという姉妹のところにイエスが行く話が出て来ます(新約聖書ルカによる福音書10章38節以下)。なぜかイエスは妹のマリアばかりひいきするのです。マルタはおもてなしで大忙しなのに、マリアはただ座ってイエスの話を聞いているだけ。マルタはイエスに不平不満を言います。「主よ、わたしの姉妹(マリア)はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください」。それでイエスがマルタにねぎらいの言葉をかけたわけでもないのですが、しかし、マルタはこのぐちをイエスに言うことによってだいぶ気がまぎれた気がするのです。少なくとも「マルタは嫉妬のあまりマリアを殺した」とかいう話にはなっていません。これですんでいるのです。「ぐちを言う」ってそういうことではないかという気がするのです。

「放蕩(ほうとう)息子のたとえ」というイエスのたとえ話が聖書に出て来ます(新約聖書ルカによる福音書15章11節以下)。これも兄弟が出て来るのですが、弟があるとき父親に自分がもらうことになっている財産の分け前をもらいます。彼は何日もしないうちにそれをすべてお金に換えて遠い国へ行って放蕩の限りを尽くして、財産を無駄遣いしてお金を使い果たしたころにその地でひどい飢饉が起こり、食べるのにも困り始めてその地に住むある人のところに身を寄せて、豚の世話をすることになります。彼はその豚のえさを食べてでも空腹を満たしたいほど食うに困っていたのですが、ついに反省して父のもとに帰ることにします。父は帰って来たその放蕩息子を大歓迎し、祝宴を始めるという話なのですが、ここまで兄はまったく出て来ません。兄の出番はこのあとなのです。弟が帰って来たので祝宴が行われています。音楽が聞こえて来ました。兄は弟が帰って来て祝宴が行われていると聞いて怒って家に入ろうとせず、父親が出て来てなだめるのですが、兄はこう言います。「このとおり、わたしは何年もお父さんに仕えています。言いつけに背いたことは一度もありません。それなのに、わたしが友達と宴会をするために、子山羊一匹くれなかったではありませんか。ところが、あなたのあの息子が、娼婦どもと一緒にあなたの身上を食いつぶして帰って来ると、肥えた子牛を屠っておやりになる」。だいぶお父さんにぐちを言っております。でもこのお兄さん、このぐちを言うことで、だいぶ気がすんだのではないかという気がいたします。なんとなく、このお兄さんは、このあと、その弟の歓迎会に加わったような気もするのですが、いかがでしょうか。このように、ぐちが言えると気がすむところがあると感じます。

もう一組、聖書から、不公平な目にあう兄弟の話を挙げますね。カインとアベルの話です(旧約聖書創世記4章1節以下)。カインは神に農作物をささげ、アベルは羊の群れの中からささげものをします。神様はアベルのささげものに目をとめますが、なぜかカインのささげものに目をとめないのです。さきほどから挙げている例と同様、神様の考えていることは人間にはわからないので、しようがないのですが、ここで聖書には、カインが誰かにぐちを言っている場面が出ないのですね。「なんでアベルばっかりなの。ずる~い!」とカインが言っている場面が出ないということです。そして、カインは弟のアベルを殺してしまいます。この「ぐちが言えなかった」ということと「人殺しをしてしまう」ということの因果関係は不明ですが、私にはなんとなくカインが誰かにぐちを言えていたら弟を殺さないですんだ気がするのですね。

今年(2022年)の1月に、大学入試共通テストの東大の試験会場で、人を刺した高校生がいました。私も教員の経験があるのでわかります。「迫る」という言いかたをするのですが、「お前、そんな成績では志望校に受からないぞ!」と生徒をおどすことを「迫る」というふうに言うのです。おそらく彼は「迫られ」過ぎたのでしょうね。わざわざ東京にまで行って人を刺すところまで行ってしまいました。あれも、たとえば勉強と関係のない、年も離れた大人の友人とかが彼のぐちを聞いてくれて「ふーん大変だねえ」とか言ってくれていたら、あの事件は起きていない気がするのですね。実際、そういうケースで「ぐちを聞いてくれる人がいたから事件を起こさずにすんでいるケース」というのは全国にたくさんあるのではないかと思ったりします。

私もずいぶん理不尽な目にあってきました。それは「私の経歴と算数・数学に対する考え」に詳しく書いてありますが(私の経歴と算数・数学に対する考え – 星くず算数・数学教室 (hoshikuzumath.com))、とにかく理不尽な目にさんざんあってきたわけです(ほとんどの東大卒、東大院卒よりも私のほうがずっと賢いと思うのですが、彼らのほとんどがいまよほど安定した高収入で社会的にも高い地位にいます。ほかもろもろ)。思わず不平不満を言わずにはいられません。聞く側からするとたまったものではない面もあるでしょうが、しかし、ぐちを言う相手がいることでだいぶ気がまぎれます。お互いにぐちを聞きあい、言いあいして、どうにか理不尽で不公平な世の中を「賢く」やり過ごすことができたら、と思っています。

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