自分の好きなことをやってなにが悪いのだろう!

フルトヴェングラーという往年の大指揮者がいます。もっぱら指揮者と評価されていますが、ご本人は「自分は指揮よりも作曲の才能のほうがある」と言っていたみたいです。私も、ご本人の指揮するフルトヴェングラーの作曲した「交響曲第2番」という曲のCDを聴いたことがあります。なんだかとても長くてモゴモゴした音楽です。ブルックナーのようなラフマニノフのような・・・。それほど魅力的な音楽だとは思いませんでした。皆さんも「あの大指揮者の作曲した曲だから。ご本人は指揮よりも作曲の才能のほうがあると言っていたようだし」ぐらいの感じでしか聴かないのがフルトヴェングラーの作曲した曲ではないかと思います。

私も生で二度聴いた指揮者として、故エフゲニ・スヴェトラーノフ氏がいますが、スヴェトラーノフも、自分を作曲家と認識していたようです。ところがスヴェトラーノフももっぱら指揮者として評価されています。私はスヴェトラーノフの作曲した曲など知りません!どういう音楽なのだろう!

この逆の人の存在に気づきました。久石譲(ひさいし・じょう)さんです。久石さんはもっぱら映画音楽、ことにジブリのアニメ映画の作曲で知られる作曲家ですが、近年は指揮者としての活躍も目覚ましいです。私も久石譲さんの指揮するベートーヴェンの交響曲をいくつか、ブラームスの交響曲第1番、ストラヴィンスキーの「春の祭典」などサブスクで聴きましたが、確かにすぐれています。とくにブラームスの1番はすばらしいと思いました。しかし、これも周囲の評価としては、ベートーヴェンの交響曲を指揮する久石譲さんより、「となりのトトロ」の音楽を作曲する久石譲さんのほうが「輝いて」いるように見える気がするのです。世に指揮者は数多くいます。しかし、「となりのトトロ」という宮崎アニメに最もあった音楽を作曲することにおいて、久石さんの右に出る人はいない気がするのです。

このように、自己認識と得意なものの違いというのはいろいろあるものです。なかなか自分の得意なものって自分ではわからないものなのですね。かくいう私もわからないのであり、このように「算数・数学の個人指導」で生計を立てることになるとは思ってもいなかったことです。ニュートンも、ある人の質問から、惑星の軌道は楕円だと答え、それを本に書いてはどうかと言われて『プリンキピア』を書いたとも聞きます。ニュートンも自分で考えたことの価値はわからなかったと言えるのかもしれないとも思います。

一方で、好きなものは好きだと言い、嫌いなものは嫌いだという能力も大切だと思います。私はかつて、以下のようにSNSで揶揄されたことがあります。「やはり大学教授になる数学者は能力が高い。無職になる数学おじさんは・・・数学が好きなんですねえ・・・」。そのころ私は星くず算数・数学教室がまわっておらず、実質的に無職でした(いまもフリーランスなので無職みたいなものですが)。このように「好き」という言葉には「へた」というニュアンスがあります。「へたの横好き」みたいなニュアンスですね。でも、いいではないですか。フルトヴェングラーも、指揮者としての才能のほうがあるのに、いっしょうけんめい、作曲していてもいいではないか!

あるときテレビで明石家さんまさんが「ワイリー・コヨーテ」というアニメ(?)の話をしていました。なんでも、あることに非常に才能があるのに、それを使わず、別のことに力を注いでいるのがそのワイリー・コヨーテというキャラなのだそうです。人間というものはそういうものかもしれませんし、それでいいとも言えるのですね。周囲と比較して得意なことをやったほうが得をすることは確かです。しかし、自分の好きなことをやってなにが悪いのだろう!

目次