講演会「自分の気持ちに素直――星くず算数・数学教室の聖書入門」原稿

今年(2024年)の夏休み、あるご家族(ご兄妹の生徒さんと親御さん)からのご依頼で、内輪の講演会を行いました。聖書についての講演会です。以下に、ご依頼者様の掲載の許可をいただき、お名前を「森かずひろ」さん、「森みさき」さんという仮名にさせていただき、原稿を掲載いたします。よろしければどうぞお読みくださいませ。以下が本文になります。

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みなさんこんにちは。本日は、皆さんの前で聖書のお話ができるということで、前々から楽しみにしておりました。さっそく内容に入って参りたいと思います。

前に、かずひろさんが、聖書と言えば、海が割れる、というお話をなさっていました。よくご存じだと思います。しかし、そのようなことは実際には到底起きない気がします。

実は、聖書というのは、たぶんに現代において、テレビ、映画、本、マンガ、SNS、インターネットに相当するものだ、ということが言えるということに私は気づき始めました。これを言っている人が世界に何人いるのか知りませんが、確かに昔はテレビがなかったので、いまのテレビが果たしている役割を聖書が果たしていたというのはおそらく本当です。

先ほどの「海が割れる」話で言えば、モーセに率いられたイスラエルの民が、前は海、うしろからエジプトの騎兵が追いかけて来て絶体絶命なのですが、モーセが海に手を伸ばすと、なんと海が2つに割れた!イスラエルの民は海の乾いたところを渡った!あとから来たエジプトの騎兵は海におぼれた!やったー!という話であり、これは昔の映画かテレビか本だったのです。実際にこの場面は現代でも映画になったり紙芝居になったりしています。

昔は、いまと同じように7日のうち6日働いて、1日休んでいました(これは旧約聖書の頭に書いてあり、それが世界標準となりました。もっともこれも聖書が後付けでしょうが)。皆さん休みの日は、会堂に行って、字の読める人の聖書の朗読を聞いたのでしょう。それはあたかも現代の人がテレビや映画を見るような楽しみだったでしょう。聖書はたぶんにエンターテインメントです。

それで、海が2つに分かれるなんてことが本当にあるのか、という点ですが、おそらく昔の人もあまり本気にしていなかったと思います。なにしろ聖書は昔のテレビですから。たとえばわれわれも昔話の絵本を読んでいて「ほんとうに枯れ木に灰をまいたら花が咲くのか」とか「ほんとうに桃から子供が生まれることはあるのか」とか、「ほんとうにゴジラが東京タワーや名古屋城を壊して歩くことがあるのか」とか、本やテレビには実際にあるとは思えないことが出て来ます。でも、楽しいからいいのです。おそらく昔の人にとっての聖書もそうだったのだろうと思います。(ちなみに聖書にも怪獣映画は出て来ます。聖書の最後の「ヨハネの黙示録」は怪獣映画です。)

そこで、本日は、聖書に出てくるある短い話にポイントをしぼって着目して、聖書のお話とします。ある「映画の名場面」についてのお話だと思ってお聞きください。あとは、本日の話をもとにして、他の聖書の話も読んでみるか、そもそも聖書である必要はなく、ドラマでもミュージカルでも、インターネットでも同様ですので、そういった「お話」のうちのひとつだと思ってお聞きいただけたらと思います。

新約聖書マルコによる福音書10章46節以下の「盲人バルティマイ」の物語です。短い話なので引用します。

一行はエリコの町に着いた。イエスが弟子たちや大勢の群衆と一緒に、エリコを出て行こうとされたとき、ティマイの子で、バルティマイという盲人の物乞いが道端に座っていた。ナザレのイエスだと聞くと、叫んで、「ダビデの子イエスよ、わたしを憐れんでください」と言い始めた。多くの人々が叱りつけて黙らせようとしたが、彼はますます、「ダビデの子よ、わたしを憐れんでください」と叫び続けた。イエスは立ち止まって、「あの男を呼んで来なさい」と言われた。人々は盲人を呼んで言った。「安心しなさい。立ちなさい。お呼びだ。」盲人は上着を脱ぎ捨て、躍り上がってイエスのところに来た。イエスは、「何をしてほしいのか」と言われた。盲人は、「先生、目が見えるようになりたいのです」と言った。そこで、イエスは言われた。「行きなさい。あなたの信仰があなたを救った。」盲人は、すぐ見えるようになり、なお道を進まれるイエスに従った。

マルコによる福音書はイエスが奇跡的に病人や障害者を癒やす場面を書き続けてきています。新約聖書の冒頭には福音書が4つ載っており、それぞれイエスの伝記となっています。マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネですね。ちなみにイエス・キリストと言いますが、キリストとは「救い主」という意味であり、名前ではありません。「名探偵コナン」といって「名探偵」というのは名前ではないようなものです。以下、イエスのことは「イエス」と呼びましょう。

このバルティマイのシーンは、マルコによる福音書において、一連の奇跡物語の最後を飾っています。この直後にイエスはエルサレムに到着し、最後の日々、十字架にかかる日々が待っています。このバルティマイ物語は、一連の奇跡の最後を飾る話なのです。

ここには「ティマイの子バルティマイ」という盲人の物乞いが出て来ます。森かずひろさんという名前は、おそらく「森」はお父さんかお母さんの名前ではないかと思います。「松本志郎」も、「松本」は父の名前です。「ティマイ」というのもバルティマイの父の名前であると思われます。「ティマイの子バルティマイ」というのは「本名まるだしフルネーム」であると考えられます。

バルティマイは盲人です。目が見えないのです。盲人と言われるかたを見たことはおありですか?もっとも現代でいえば私も盲人であったと思います。昔はメガネがなかったと思いますから、私くらいひどい近眼で老眼であれば、十分に仕事に支障が出たと思います。

バルティマイは(最新の翻訳によれば)「先生、また見えるようになりたい」と言っているところを見ると、生まれつきの盲人ではありません。人生の途中から、なんらかの事情によって目が見えなくなった人なのです。おそらく、目が見えていたころは、家も仕事も家族もあったのではないかと思います。それが、人生の途中で、なんらかの事情で目が見えなくなり、仕事と家と家族を失い、ひとりで道端で物乞いをしていたと考えられます。

物乞いをしている人は見たことがありますか?バルティマイの時代に社会保障や福祉はありません。バルティマイは、食べ物や着る物など、お恵みをもらいながら、生き延びていたと考えられます。

これは、前にも言いました通り、一連の奇跡物語の大詰めです。イエスは病気や障害の人をたくさん癒やしていました。当時はそれこそテレビも新聞もネットもないので、口コミで評判が広がり、エリコという、イエスの出身地であるガリラヤよりもだいぶ離れた町でもイエスの評判はとどろいていたと考えられます。バルティマイは声を上げます。「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」。たくさんの人に叱られました。いまでも「助けてください!」というと「甘えるな!」と言われて、叱られることがあります。しかし、バルティマイは、ますます大きな声で「ダビデの子イエスよ、私を憐れんでください!」と叫び続けました。バルティマイは「あつかましい」人です。しかし、そこでイエスは「あの男を呼んできなさい」と言います。イエスはバルティマイが叫んでいるのに気づいたのです。盲人は躍り上がってイエスのところに来ました。イエスは「何をして欲しいのか」とバルティマイに言います。バルティマイは「先生、見えるようになりたいのです」と言います。ものすごいあつかましさです。イエスは「あなたの信仰があなたを救った」と言います。バルティマイはたちまち見えるようになりました。ここまであつかましい人は本当に見えるようになってしまうのです。

ここで言えることがあります。「自分の気持ちに素直であること」。これはバルティマイ物語の基本にあります。みさきさんの名言で「得意なものは得意なのだ。決めつけないで」というものがあります。おそらくみさきさんは、大人になったら得意、不得意は、他者との比較で決まることをご存じなのでしょう。もちろん、大人になったら、他者との比較で、得意、不得意が決まるので、それまでには自分の得意なこと、苦手なことを見極めているといいと思いますが、しかし、「得意なことを得意」だと言えることは人間の基本でありました。みさきさんの名言で「1キロはちょっと重い」というものもあります。重いものは重いのです。このように、好きなものは好きと言い、嫌なことは嫌だと言い、暑いときは暑いと言い、寒いときは寒いと言い、こわいときはこわいと言い、おいしいものはおいしいと言う。それは人間の基本でありました。バルティマイは困っているときに「助けてください」と言いました。バルティマイは、自分の気持ちに素直な人だったのです。おそらく、親から愛されて育った人なのでしょう。人生の途中で目が不自由になっても、人からのお恵みで生き残り、頼って生きていた。

そして、イエスに「先生、見えるようになりたい」と言ったあとにイエスの言った決定的な一言があります。「あなたの信仰があなたを救った」。聖書で「信仰」と言った場合、多くは「あつかましさ」を意味します。「人に頼る気持ち」のことです。信じないと頼れないですからね。われわれも、トイレに入れば流れると信じています。トイレに入って流れなかったら「どっきり番組」です。われわれはトイレに頼っているのです。下水道で働く人に頼っています。バスに乗るときはバスの運転手さんがまさか事故を起こさないことに信頼しています。学校でも、校舎や体育館の前にひいてあるマットの交換業者の人に頼っているのです。エアコンの修理の人にも、ごみの回収の人にも頼っています。頼るとは信じることであった。「あなたの信仰があなたを救った」とは「あなたのあつかましさがあなたを救った」という意味でした。

バルティマイからすると「自分のあつかましさが自分を救った」という意味であり、「自分の『人に頼る気持ち』が自分を救った」という意味になります。つまり「頼ることを自立という」のです。これは、このバルティマイ・ストーリーの最大の「名シーン」であると私は考えます。自立とは人に頼ることであった。

私は長いこと、自立とは人に頼らないことだと思ってきてしまいました。しかし、それは誤りであったのです。人に頼ることを自立というのだったのです。

バルティマイは、徹底的に人に頼ることによって、自立している人です。

星くず算数・数学教室は、徹底的にいろいろな人に頼り、たくさんの人に迷惑をかけながら成立している教室です。確かに自立とは人に頼ることだったのです。

私は、「人生の途中で障害者になる(正確には私は人生の途中で障害の診断がくだった)」「そしてそれが原因で仕事を失う」というところがバルティマイと共通しています。そして、もしかしたら、その難局を、あつかましさで乗り切ろうとしているところも似ているのかもしれません。

聖書に「求めなさい。そうすれば、与えられる」という言葉が載っています。イエスの言葉です。これは、求めたら即、与えられるという意味よりは、拒絶されても叱られても、とにかくノックし続けたらどこかが開く可能性にかけてノックし続けろ、という意味だと私は感じています。

そして、バルティマイは、ほんとうに見えるようになってしまいます。これは聖書が昔のテレビか映画かマンガだからです。花さかじいさんが最後には報われるように、つるを助けた若者はつるから恩返しを受けるように、お地蔵さんに笠をかぶせて来たおじいさんはお地蔵さんから恩返しを受けるように、シンデレラは王子様と結婚するように、桃太郎は鬼退治をして金、銀、さんごを持っておじいさん、おばあさんのところに凱旋するように、そこはみんなの願いが込められて、バルティマイはあっという間に目が見えるようになる話になっております。

そして、最後、一瞬ですが、バルティマイはイエスに従ったと書いてあります。親から愛された、情けの厚いバルティマイは、困っているとき「助けて」が言えました。そして、自分が助かってからは、自分が助ける側にまわったのです。困っている人がいたら助ける、そして、自分が困っているときは助けてもらう。お互いに迷惑をかけながら、それを大目に見て、そして大目に見てもらいながら生きる。それが人間が人間らしく生きる道です。

森兄妹は、皆さん自分の気持ちに素直です。その生き方で間違っていないと思います。「人に頼ることを自立という」。このことを大切にして生きて行って欲しいと願っています。(私から偉そうに説教されることではないとも思うのですが・・私もようやく最近、わかってきたことですので)

以上、2000ページくらいある聖書の、ワンシーンである半ページくらいの、バルティマイ物語について、お話をして参りました。この調子で、他の聖書の話も読んだり、それ以上に、こういうふうに、本を読み、映画を見、テレビを見、YouTubeをご覧ください。いろいろな名シーンがあると思います。

私はいま「死ぬまで生きる」という目標で生きています。これはいま生きている人の誰も達成したことのないチャレンジです。いま生きている人は、死ぬまで生きたことのない人だからです。どのような艱難があっても、大船に乗った気持ちで乗り越えていきましょう。自分の人生の主役は自分です。どんな番組よりもマンガよりもおもしろいのが自分の人生そのものです。お互い、おじいさん、おばあさんになるまで、生きて行きたいと願います。

本日の「聖書のお話」は以上です。ご清聴ありがとうございました。

参考文献

安冨歩「生きるための論語」ちくま新書

安冨歩「生きる技法」青灯社

日本聖書協会「聖書 新共同訳」

日本聖書協会「聖書 聖書協会共同訳」

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