高校の教科書の「問題を解く」賢い大人の生徒さん

※この記事は音楽とは関係ありません。サムネイルの「クイズ」の答えは最後に書きますね。

また、当教室での授業のようすを紹介させていただきますね。公開に当たり、ご本人様の許可は得ております。

ご入門から、まる2年が経過し、3年目となられる大人の生徒さんです。高校の教科書で習う、複素数について学びたいというご希望でした。いまでもそれを目標に勉強しておりますが、この生徒さんの授業は、実際には高校の教科書に沿って、この生徒さんが、ひたすら教科書の「問題を解く」スタイルとなっております。

高校の「数学Ⅰ」から始めました。それは、つい最近、1ページも飛ばさずに、すべての問題を解いて、終わりになりました。(すごいことです。)それで、最近、「数学A」に入りました。いまは、「場合の数と確率」が終わり「平面図形」に入ろうとするタイミングです。

「問題解決型というより伴走型」と看板に出している星くず算数・数学教室では、珍しいタイプの授業であると言えます。じつは、この2年間、私はしばしば、この「ひたすら問題を解く」生徒さんに、イライラして来たことを正直に告白しなければなりません。この生徒さんのしていることは、およそ学問的に思えなかったのです。私は、パズルかクイズのように思える受験数学は嫌いでした。この生徒さんが、「三角比」を学んでおられるとき、コサインの値が1を超えていても気づかないご様子には、内心、腹を立てていたことも正直に告白せねばなりません。それで、つい最近、この生徒さんが、ものすごく「おおらか」で「賢い」ことに気づいて、このたび、この「独特な」授業の紹介の記事を書かせていただこうと思った次第なのです。

ときどき、この生徒さんが、ものすごくおおらかで賢いのではないか、と思うタイミングは、この2年間にちょくちょくありました。それで、決定的なことの起きる2週間くらい前の授業のことから書かせていただきたいと思います。ご一緒に「確率」の計算で「期待値」の勉強をしておりました。教科書には以下のような問題が載っています。

「次の2つの場合のいずれかを選べるとき、どちらを選んだ方が、得られる期待値の金額が大きいか。[1] 確実に30000円得られる場合 [2] 40000円得られる確率が0.8で、何も得られない確率が0.2である場合」

これは、期待値を計算しますと、[2]は32000円で、[1]よりやや大きいという結果になります。ここで私が、2007年ごろ、18年くらい前に、教員だったときに授業で披露した例を思い出して、この生徒さんに語ることがありました。

当時、テレビで「クイズ・ミリオネア」という番組が流行っていました。みのもんたさんが司会し「ファイナル・アンサー?」と聞くことで有名だったクイズ番組です。私が当時の高校生に話していた例は、当たると1000万円の賞金が得られる最終問題で、問題を見てからチャレンジするかしないか決められるのですが、4択の問題を見て、まったくわからなかった場合、この問題にチャレンジするか、棄権するか、で、どちらのほうが得か、というものでした。ここで、棄権したときに得られる金額と、チャレンジして外したときに得られる金額の、具体的な値をいま、忘れてしまい、インターネット検索しても、ChatGPTに聞いてもまったくわからない状況ですので、具体的な計算は省きます。とにかく、これを教科書の問いのように期待値を計算してみますと、棄権したほうが得なのでした。しかし、私も今年(2024年)に入ってからの気づきがあるのです。

私は、2022年に仕事を失い、自営業となり、改めてお金とか仕事について、考える機会となっています。過去の日記も読み返しています。前にも書いたことのある話で恐縮ですが、1998年、私が学部4年生のときの夏学期の日記で、確率・統計の授業を聴き、その専門は自分の進むべき方面ではないと悟った日(私は専門として位相幾何学を選びました。間違っていなかったと今でも思っています)、宝くじはなるべくまとめ買いをしないほうがいい、極端な話、すべて買い占めたら必ず損をする、と書いています。その四半世紀以上が過ぎた2024年(今年)のことです。授業のなかった日、親しい友人と神社参りをしました。いっしょに宝くじを買い、彼は「あー楽しかった!」と言いました。私は48年生きて来て、ようやく宝くじを買う意義を悟ったのです。宝くじとは「当たるかもしれない」という「わくわく感」を買うものであった。金額的には損をするものであっても、お金の価値とは金額ではないので、宝くじというものは、常に胴元が「勝つ」ものでありながら、買う価値のあるものでした。かといって私は若いころも現在も、宝くじは買わない人間ですが、それでも、少しお金の価値に気づいたのです。2007年ごろの「クイズ・ミリオネア」で高校生の前で授業をしていたころにはもちろん気づいていない点です。仕事を失って自営業となって、お金の価値を見直して、ようやく気付いた当たり前かもしれないポイントでした。

今回の生徒さんの話に戻ります。この生徒さんは、こういう話に非常に共感してくださるのです。いやむしろ、このような話は当たり前の話であって、それが大前提にあるうえで、私の数学教室で問題を解いておられるかのようでした。この生徒さんは、さきほどの問題文で「どちらを選んだ方が、得られる金額の期待値が大きいか」という文面に着目されました。「どちらの方が得か」と書いたら、「得られるわくわく感」まで含めねばならないかもしれません。(私が先ほど書いたクイズ・ミリオネアの話は、私は意図的に「どちらのほうが得か」と書きました。お気づきになられましたでしょうか。)このような、人生の機微のようなものをよくご存じの生徒さんだったのです。

その目で見てみますと、その次の問題である、以下のようなものも、見え方が違って来ます。引き続き、期待値の問題です。

「赤玉3個、白玉5個が入っている袋がある。この袋から玉を3個同時に取り出し、取り出された赤玉1個について賞金100円を受け取るゲームがある。このゲームの参加料が120円であるとき、このゲームに参加することは得であるといえるか」。

ここに小さく註が書いてあり「賞金額の期待値が参加料より大きいときに得であると判定する」とあります。そして、模範解答を見ますと、これは「このゲームに参加することは得であるとは言えない」という結論になっています。これは「普通の」ゲームです。もしも、このゲームに参加することが得であるなら、あらゆる人がこのゲームに参加し、このゲームの胴元は破産するでしょう。損をするのにあえてチャレンジする、それがこういうゲームの楽しさでした。それで参加料の120円を払うのです。その意味で、クイズ・ミリオネアで、4択のまったくわからない問いが出たとき、引き下がって棄権したほうが得であるのも「普通」でした。期待値的には損をするのに、あえて1000万にチャレンジする。もしかして当たるかもしれない。そのわくわく感で、番組は盛り上がっていたわけです。そうなっていたわけです。2007年ごろの私にはわかっていなかった点です。

そして、その2週間後の授業のことです。この生徒さんは、相変わらず問題を解いておられました。教科書を1ページも飛ばされませんので、章末の演習問題を解いて来られたところでした。「場合の数と確率」の章末問題です。以下のような問題です。

「5個の数字0,1,2,3,4,5を重複なく使ってできる5桁の整数を、小さい方から順に並べる。初めて20000以上になるのは、何番目か」。

この生徒さんは、1万の位に0が来ていいのかどうか、迷ったそうで、1万の位に0 が来てもいいと考えた場合と、1万の位に0が来てはいけないと考える場合の、両方で問題を解いて来られました。そして、これは出題者に隙があると思うとおっしゃり、どちらであると思うか、私におたずねになりました。私は、そう思われた場合は、今回のように、両方のケースで解いてくるということでよいのではないかと申し上げました。この生徒さんは笑いながら、そうだけれども、どちらだと思うか、改めて私に聞かれました。それで、私はついに確信し、この生徒さんに申し上げました。「〇〇さん(この生徒さんのお名前)、〇〇さんは、とてもおおらかな方ですね?」

そう思った理由も述べました。数で表せないものをあえて数で表すのは、遊びです。本稿執筆時点でまだ放送されていない、M-1グランプリも、「漫才のおもしろさ」という、本来、数で表せないものをあえて数で表して競っているので、「遊び」です。カラオケで歌のうまさが点数化されるのも「遊び」です(本来、歌は、聞いて感動するとか、歌って喜ぶものですので、歌のうまさが数で表されるはずはないのですが、それをあえて数で表して遊んでいます)。先ほどの「金額」というものも、人間の味わう幸せとか、喜びとかいうものが数で表されるはずはないのですが、それをあえて数で表すのが「金額」というものかもしれません。お金では買えない幸せをお金で買うのがお金の価値でありました。これと同様なのが、人間の賢さという、数で表せないものを数で表した「成績」というものです。学校の成績とは、壮大な「遊び」でありました。

もうひとつ、人生は選択肢の積み重ねではないのにも関わらず、選択肢にするのも「遊び」です。たとえば、子供さんが両手をグーにして、前に出し「どっちだ?」と言います。どちらかにどんぐりが入っているのです。また、トランプでババ抜きをするときも、数枚あるトランプの1枚がババであるわけで、トランプは遊びです。3個あるガムのうち、1つがとてもすっぱいという遊びもあります。一方で、人生がそのような選択肢になっていることは、現実にはありません。たとえばどこかの地に引っ越すにしても、その地の無数にある物件のどこに住むことになるかというのは、選択肢というよりも、「ご縁」です。それで、メンタルの調子が悪くなって、メンタルクリニックに通うにしても「選択肢」というよりは「ご縁」です。その生徒さんとの出会いもご縁でした。4択の問題で、1つだけが正解で、あとは不正解になっているのは、現実世界ではあり得ないことであり「遊び」なのでした。この生徒さんは、先ほどの問題で、正解が複数あるのはおかしいとお思いになり、どちらだと思うか、私におたずねになりました。この生徒さんが取り組んでおられるものは、壮大な「遊び」なのでした。先述の「クイズ・ミリオネア」が遊びであったように、高校の教科書を、クイズかパズルのようにとらえて、遊んでおられるのでした。

というふうなことを私はこの生徒さんに述べました。その生徒さんは、確かに遊びかもしれませんねとおっしゃり、人生がどうにもならないということは通常はない、ということもおっしゃいました。私は驚きました。私がつい最近、ようやく学んだ、人生はなんとかなると思い、大丈夫、大概のことはどうにかなると思って生きている、まるで大船に乗ったような安心感で自分の人生を操縦しておられる賢い方であることが鮮明になったからです。

考えてみますと、毎月、月謝を払ってくださり、問題を解きながらちょくちょく間違いを私にさらし、それで、2年も続けてくださっているのも、大船に乗っておられるからでした。この生徒さんにとって、私の授業は、クイズ番組のように楽しいものなのかもしれません。

この生徒さんは続けて、自営業の人のほうが視野が広いということは容易に想像がつきますとおっしゃいました。この生徒さんはサラリーマンであられます。だからといってサラリーマンを辞めて自営業にはならないけれども、先生のような自営業のかたはすごいと思いますとおっしゃってくださいました。私が自営業ですので、私を立てておっしゃってくださったと思います。すみません。私も、かっこつけて「独立した」と言ってはいるものの、実際にはサラリーマン失格でやむを得ず自営業になった人間ではあります。しかし、確かに視野は広がりました。私が順調に学者になっていたら、いまよりずっと視野は狭かったでしょうね。

それで改めてこの生徒さんは、先ほどの問題は、どちらが正解であると思うか、聞いてこられました。ほんとうに人生を楽しんでおられます。私は、万の位に0が来ないほうが教科書の執筆者の想定する模範解答ではないかとお返事しました。「0万1千2百3十4」とは普通、言わないからです。この生徒さんは納得なさいました。

まる2年のお付き合いで、この生徒さんが、とても賢いことをはっきり認識した次第でした。当教室には、ほんとうにいろいろな生徒さんがおられます。私は最近ようやく、自分の性格が悪いことを認識しました。私が幼少からいじめられて来たのも、東大でもなめられるほうであったのも、教員時代に授業が崩壊したのも、大きく作用していたのは、私の性格の悪さでした。しかし、こういう大船に乗ったかたは、私のような「性格の悪い」人間にも、対等に付き合ってくださることにも気づかされて来たところです。ありがたい生徒さんです。これからも、目標を複素数に置きつつ、高校の教科書を読み進んで行きたいと強く願っています。

(それで、サムネイルの4択クイズの答えを書きますね。ベートーヴェンの9曲の番号つき交響曲のなかで、ティンパニ以外の打楽器を要する曲は「第九」だけです。④が正解です!正解のかたはおめでとうございます!賞金1000万円!)

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