愛の技術はモテるためか。勉強するのは成績のためか。(エーリッヒ・フロム『愛するということ』の冒頭の一文について)

エーリッヒ・フロムの「愛するということ」という本は、愛するということは技術であって、技術であるからには訓練で習得されるということを主張しています。フロムは、これは愛される技術という意味ではないということを本の冒頭で強調しています。 フロムは「ユダヤ教の人間観」という著書の中でもたびたびこの種の本末転倒的現象について言及しています。この現象を「数学は問題を解くものではない」という私の主張、すなわち、私がよく述べている「勉強の目的における本末転倒的現象」から考えてみたいと思います。
ツイッターを眺めていますと、時々、いかなる男性がモテるかという話題が流れてきます。ツイッターは現代の週刊誌なのでしょう。私が男性だから男性向けの記事が流れて来るだけで、以下の話は女性でも同様です。そういうところに描かれるモテる男性の特徴をよく観察すると、そういう男性は、たった今話している相手が、いかなる人であるか、ずっと考え続けているらしいことがわかります。この、たった今話している相手がいかなる人間であるかを話している間中ずっと考え続けることをフロムおよび安冨歩さんは「尊重」と言っています。これは確かにフロムの言う通り訓練がいります。もしかしたらこういう男性(あるいは女性)は、小さい頃から親から大切に扱われ、それで自分を大切な人間だと認識しており、常に自分を大切にして生きており、その当然の帰結として周囲の人間も大切にしながら生きているということなのかもしれません。確かにこういう人がいたらモテるでしょう。しかし先ほど述べました通りフロムは、この本は愛される技術についての本ではないと言います。ここで「愛される技術」というのは「モテるテクニック」という意味であり、つまり、この男性(あるいは女性)のような行為をモテるために行うのであれば、それは本末転倒なのです。
成績を上げるために勉強するのは、勉強をする目的としては本末転倒だと私は思います。成績とは本来、勉強に対する先生の評価であり、それを得るために勉強するとしたら、それは本末転倒以外の何物でもありません。試験問題とは、先生が、その生徒がどれほどその勉強が身についたかを調べるために出すものであって、それを解くことを目的としたら意味がありません。同じ理由で、論文を書くために研究する研究者も本末転倒です。成績のために勉強した(本末転倒的)学生が、論文のために研究する(本末転倒的)研究者になるような気もします。これはモテるために愛する技術を磨こうとする人と同様の矛盾を抱えています。
私は、そういう不純な動機では研究者として通用しませんよと言いたいわけではありません。通用してしまうと思うのです。通用したらしたでよくないわけです。最後にリンクを貼ります通りそのような考えは世界を危険にさらすと思います。
このような視点から「愛するということ」の冒頭の一文を読んでみます。「愛するという技術についての安易な教えを期待してこの本を読む人は、がっかりするだろう」。これは、多くの人にはがっかりして欲しいというフロムの気持ちが現れた文だということに気づきます。この本の本当の意味がわかった人の多くはがっかりするはずだとフロムは考えていると私には感じられます。なぜなら、現代も、ツイッターや週刊誌で見る通り、多くの人は愛の技術はモテるためだと思っているからです。(もしかしたらこの本が出た時のフロムは結構売れていたのかもしれませんね。冒頭の一文から読者にがっかりして欲しいと宣言できるからです。)
この本は1956年にアメリカで刊行されています。ちょうど70年前です。ヒトラーが自殺してから十年ぐらい、原子爆弾の投下から十年ぐらいです。私はこの本を昨年の今頃知りました。私は最初この本を図書館で借りて読み、買って読むべき本だと気がつき、半年ほど前に近所の書店へ行きました。注文して買うつもりでしたが、平積みになって売ってありました。この本が刊行されてから70年が経つ日本で飛ぶように売れているのです。これはエーリッヒ・フロムの思想が現代日本で非常によく理解されているということなのでしょうか。そうではないと思います。先ほど見ましたように、この本の真の意味が分かった人の多くはがっかりするはずなのです。この本が飛ぶように売れているという事実は、この本の内容がほとんど理解されていないということを意味するのです。 フロム自身の言葉をこの本から引用します。「心理学はひじょうに人気がある。これはたしかに、人間を知りたいという興味のあらわれだが、同時に、現代の人間関係には根本的に愛が欠けていることの現れでもある。つまり現代人は、愛の行為によって相手を完全に知ることへと一歩踏み出すかわりに、心理学的に知ることをもってその代用品としているのだ」(199ページ*7)。心理学という言葉をフロムのこの本で置き換えてみれば分かります。この本の人気は、現代の人間関係に根本的に愛が欠けていることの現れです。
私の感覚では、現代の塾業界の過熱、教育の過熱は、人々に学問が浸透してきたことを表すわけでもなければ、世間の知的なレベルが上がってきたというようなわけでもないと思います。ほとんどの人が勉強とは成績を上げるための営みであると暗黙のうちに信じている世の中は、多くの人が本当の学問とは何かということを見失っている世界だと思います。私はそれほど売れているわけではないので、フロムのように大見得を切ることができないのですが、最後にリンクを貼る私の「数学とは問題を解くものか(私はそうは思わない)」という議論も、分かった人はがっかりするよと言ってみたいような気分です(笑)。
最後に一言。それでも、勉強ができることによって、先生から褒められたら嬉しいものです。私はその嬉しさを否定するものではありません。先生から褒められるのが目的となったら意味がない(むしろ危険)というふうには言いますけれども。同じように、最初に述べた、周囲の人すべてを話している間中どういう人間かと考え続ける男性/女性も、非常にモテるでしょうし、モテたら嬉しいでしょう。私はその嬉しさを否定するつもりはありません。人間として当たり前の感情です。モテるのが目的で愛の技術を磨くというふうになったら意味がないとは思いますけれども。
リンクを貼ります。

(アイキャッチ画像は、エーリッヒ・フロム著、鈴木晶訳、『愛するということ』紀伊國屋書店です。紀伊國屋書店出版部様からブログにおける表紙の使用の許可をいただきました。)
