エーリッヒ・フロムと土居健郎の関係(「わかって欲しい」という気持ちについて)

自分がこれからどう生きて行かねばならないかということについて、エーリッヒ・フロムの著作(とくに『愛するということ』)は参考になります。本日は、『「甘え」の構造』の著者、土居健郎(どい・たけお)との関連について、最近感じていることを少し書きたいと思います。

フロムの書いたものを読みますと、私がこれから生きて行くにあたっての注意すべき点について、非常に参考になることがたくさん書かれていることに気づきますが、少し、道徳的に潔癖すぎると感じることもあります。(フロムが道徳的に潔癖な人であったかどうかはわかりません。少なくとも、書いてあることを文字通りに取れば、道徳的に潔癖に感じます。)例を挙げます。フロムは『悪について』のなかで、「あらゆる執着を捨てよ」という仏教の考えに賛成の意思を表しています。私は以下に書きますように「人間には執着する権利がある」と考えています。(昨年11月に、そのような題のブログ記事を書きました。最後にリンクをはります。)昨年6月の私の経験を書きます。

滞在していたホテルのテレビで、アイドルの番組をやっていたのです。アイドルのファンの皆さんは、アイドル(=偶像)を崇拝しておられ、それはあたかも宗教であるように感じられました。そこから気づいた点があるのです。聖書の神は、自分以外のものを神と拝むな、ということを言っています。これは、神による「束縛」ではなく、「アドバイス」でした。神でないものを神のように拝むことで、身を滅ぼしている人はときどき見るからです。お金を神のように拝むことで、身を滅ぼしている人はときどき見ます(大きな規模では世界的にもいて、身近にもときどきいる)。私が教員であったころときどき見たのは「うちの子がいい学校に受からないと、いい就職ができなくて、いい人生が送れないのではないか」という宗教にとらわれた親御さんで、こうなりますと、人の言うことに耳を貸さなくなり、じゃんじゃんお金をつぎ込んでしまい、まさにカルト宗教そのものとなります。この場合は学歴信仰と言いますが、このように、神でないものを神と拝んで身を滅ぼしている人はときどきいるため、神様が「神でないものを神と拝まない方がいいよ」とアドバイスしているわけでした。これは私は「執着しすぎへの警告」と取ったわけです。逆に言うと、私は、適度な執着ならいいのではないかと考えており、そこは、「あらゆる執着を捨てよ」というフロムとは(目指す方向は一致していますが)少し考えが違い、「人間には執着する権利がある」と考えるわけです。誰しもお金は欲しいですし、褒められたいですし、モテたいですからね。その欲望が過度になって身を滅ぼす水準になるのはよくない、というふうに取っているわけです。

さて、本題です。論語に「人知らずしてうらみず、また君子ならずや」とあります。論語とフロムの著作がだいたい似た路線で書かれていることは、安冨歩さんの著作で学びました。私自身、自分がわかってもらえないからといって、また、物の道理がわからない人を見たからといって、カッカカッカしない人間であれたら、という思いでいます。ここで、「人間の、わかって欲しいと思う気持ち」をよく分析した人がいます。土居健郎です。人間は、わかって欲しいという気持ちを持っています。土居の挙げる例をお見せします。新約聖書ルカによる福音書の、マルタとマリアの物語です。短いので全文を引用します。このお話をご存じの方は飛ばして大丈夫です。

一行が歩いて行くうち、イエスはある村にお入りになった。すると、マルタという女が、イエスを家に迎え入れた。彼女にはマリアという姉妹がいた。マリアは主の足もとに座って、その話に聞き入っていた。マルタは、いろいろのもてなしのためせわしく立ち働いていたが、そばに近寄って言った。「主よ、わたしの姉妹はわたしだけにもてなしをさせていますが、何ともお思いになりませんか。手伝ってくれるようにおっしゃってください。」主はお答えになった。「マルタ、マルタ、あなたは多くのことに思い悩み、心を乱している。しかし、必要なことはただ一つだけである。マリアは良い方を選んだ。それを取り上げてはならない。

これはいかにも不公平であるため、この話が礼拝で読まれると、あとで場が盛り上がる傾向にあります。土居は、マルタがイエスに甘えていると言います。(土居は、「甘え」という言葉は、悪い意味で使っていません。人間にそういう気持ちがある、という文脈で書いています。)マルタは、理不尽な目にあって、それを「わかって欲しい」のです。マルタにとってイエスが心理的に近い位置にいたため、自然と、無自覚的に、「文句」が出たのでしょう。この「文句」を土居は「甘え」と呼んでいるわけです。

聖書に似たような兄弟間の不公平話があります。旧約聖書の創世記のカインとアベルの物語では、神はアベルの捧げものに目をとめ、カインの捧げものに目をとめません。神は不公平で理不尽です。ここで、カインが文句を言う場面は描かれていません。そして、カインはアベルを殺してしまうのです。土居は「ねたみは、甘えがあると緩和する」と言っています。先ほどのマルタもマリアをねたんでいますが、マリアを殺したりはしていないわけです。マルタには文句を言う相手がいたからです。土居は、聖書に「ねたんではならない」と書いてない理由として、ねたみは人間に起きる自然な気持ちで、ねたむなと言っても無理なことを挙げていますが、しかし先ほどのカインとアベルの殺人の例を見ても分かる通り、ねたみは負の感情です。土居は、ねたみを避ける2つの方法を挙げます。ひとつは、自分がいまねたんでいることを自覚すること、もうひとつが、甘えられる友達がいることです。「わかって欲しい」という気持ちは、どうしようもないとき、誰かに言った方がいいのかもしれません。抱え込んで深刻なねたみにいたるよりいいのでしょう。

フロムや論語は、人の話を聞き、人の話を理解することが大切で、人がわかってくれないのは気にしないのが立派な人だと主張しており、私はその言葉の重要性を心に刻みます。マルタが本当にその意味で「立派な人(君子)」ならば、黙々とおもてなしを続けたかもしれません。私はその一方で、土居の考えも取り入れたいと思っています。人間が「わかって欲しい」という気持ちを持つのは当然であり避けられず、ときにそれをどこかで吐きつつ生きるということです。(これは「執着」も同様で、人間は、ある一点で執着心を発揮することで、つまり何かのマニアであったりすることなどですが、それで他の面での日常生活を安定して送れるものなのかもしれないとも思うわけです。)もしかしたらこのフロムと土居の差は、フロムが1900年生まれ、土居が1920年生まれで、土居は30歳のときにアメリカに行き、カルチャーショックを受け、欧米の言葉にはなく日本語にある「甘え」という言葉について深い思索をした、というようなところにもあるのかもしれません。

最後に「人間には執着する権利がある」という記事をはります。

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