キリスト「贖罪論」はどこから出て来たか

これは、キリスト教のマニアックな話題の記事ですが、なるべく多くの人に通じるように書きたいと思います。

「贖罪(しょくざい)論」とは、イエス・キリストが十字架の上で、われわれの罪を贖(あがな)ってくださったのだ、というような発想を指すと思います。「思います」というぼやかした言い方は、私があまりこれに詳しくないということを意味します。しかし、私も信者歴25年以上になりますが、これは教会でしょっちゅう聞く話題です。ところが、一部の聖書の専門家から、贖罪論は根拠がない、と贖罪論に否定的な意見も出ていることは、ようやくここ10年くらいでなんとなく知りました(およそ10年前に読んだ新書で知りました。また同じころ、贖罪論に否定的な牧師にも肯定的な牧師にも会いました)。つまり、贖罪論は、いろいろ議論があるらしいのです。確かに、少なくとも新約聖書の福音書に、「贖罪」という発想は出て来ないようにも思われます。

この話題はずっと私の中でぼんやりしたままでしたが、このたび、「星くず算数・数学教室」(当教室)の特徴について、考えを巡らせているうち、「贖罪論はいったいどこから出て来たか」について、急にはっきりした認識に至ったのです。この気づきについて、以下にご紹介したいと思います。(親キリスト教的な話にはならない予定なので、不快に思われる方にはこの先はお読みになられないほうがいいかもしれません。)

私が自分の特徴を考えるうえで、昨年(2025年)の4月ごろから1年とちょっと考えている、以下のような発想があります。次に述べる3つのキーワードをご覧ください。

①「ポリシー」

②「サボっている」

③「できない」

これが何を意味するか、ご説明をしましょう。③の「できない」は、「やってもできない」ことを意味します。それに対して、①「ポリシー」と②「サボっている」は、「やればできるのだけど、あえてやらない」ことを意味しています。うち、①の「ポリシー」とは、やればできるのだけど、あえてポリシーとして、やらないことを意味します。やらないほうが立派なことの場合です。これに対して、やったほうが立派だけど、そして、やればできるのだけど、やらないことは②「サボっている」というふうに言うわけです。つまり、①②③のすべては、何かをやらないことを意味し、③の「できない」は、やってもできないことを意味し、①②は、やればできるのだけど、やらないことを意味し、そのうち①「ポリシー」は、やらないほうが立派な場合、②「サボっている」は、やったほうが立派な場合、です。ここまでよろしいでしょうか。

私が独立して「星くず算数・数学教室」を始めたのは、およそ4年前の、2022年3月です。私は受験指導が苦手です。それで、教室の看板(インターネット上のホームページですが)には、「私は、数学とは問題を解くものとは思っておらず、考えるものだと思っています」(つまり、問題を解く、あるいは、問題を解かせるという、受験指導は苦手です)と書いていました。(形を変えて、現在もその看板は出しています。最後にリンクをはりたいと思います。)ところが、この看板をご覧になった多くの人の、この文言の解釈は違ったのです。「そうはいっても渕沢先生は、自身、東大を出られているし、ずいぶん高度な数学がわかるみたいだから、受験指導ができないわけはない。つまり、先生は受験が『お嫌い』なのだ」というふうに多くの方は解釈なさっていたと気づきました。つまり、受験指導が③「できない」のではなく、受験指導はいたしませんという①「ポリシー」をお持ちなのだ、と多くの方が解釈なさっていたことに(今さらながら)気づいた、というわけです。(つまり私を「できる人」と評価してくださっていたわけですが。)

(これに気づいてから、考えた末、私は、受験指導もいたしますという看板を出しました。できる限り、ご期待に沿いたいと思いますので、どうぞ受験指導、テスト勉強指導を希望なさる方も遠慮なくお問い合わせをくださったらと思います。その記事も最後にリンクをはります。)

また、私は整理整頓が苦手で、絶えず忘れ物やなくし物をする、だらしのない子供でした。小学校へ上がった6歳のとき、担任の先生から毎日厳しく叱られました。これもなぜなのか、最近ようやく分かりました。整理整頓が③「できない」のではなく、整理整頓を②「サボっている」ように見えていたのです!これに気づいたときも衝撃的でした。私は確かに整理整頓が苦手で、たった今も散らかった部屋からこのブログを書いています。整理整頓は根本的に苦手なのですが、整理整頓はやればできるのにサボっているように見えていたのだなあ・・・と思うと、気が遠くなるような思いがいたします。

(①「ポリシー」と②「サボっている」の違いについてですが、整理整頓はするのが立派であり、受験指導はしないのが立派(?)ということになります。「受験指導はしないのが立派」とは妙ですが、おそらく、受験指導は簡単にお金をもうける方法だと思われていて、それをしない渕沢先生は、「かっこよく」見えていた?)

前置きが長くなりました。これのアナロジーで、キリストの贖罪論を考えます。

先ほど、贖罪という発想が、少なくとも福音書に出て来ない、と少し述べました。私の見る限り、少なくとも最古の福音書と言われるマルコによる福音書(※1)で、贖罪論はまったく出ないと言い切ることはできると思いますので、以下、マルコ福音書のイエスの描き方から見てみたいと思います。

※1 福音書のなかでマルコ福音書が最も古いというのは定説ですが、私はここ2年か3年くらいで、日本語の聖書を、内容を考えつつ読んでも、この定説は裏付けが取れると思うようになりました。少なくとも、マタイによる福音書と比較して、マルコのほうが先行している(マタイがあとで、マルコを写している)ということを裏付ける箇所はいくつもあります。この論はまだ公開していないと思います。いずれ書きたいと思います。

十字架上のイエス・キリストは、なぜ十字架から降りて来ないのか?マルコはこれを「降りられない」というふうに描いていると思います。マルコ福音書の前半で、イエスは超人的な「癒し」を次々に見せます。目の見えない人を見えるようにし、寝たきりの人を起き上がらせ、重い皮膚病の人を瞬間的に治しました。しかし、自分のこととなると、ダメなのです。一般的に人間は、人は励ませても自分自身を励ますことはできなかったりしますし、人のことはよく見えても、自分のことはよく見えなかったりします。十字架につけられたイエスは「他人は救ったのに、自分は救えない」(15章31節)と祭司長たちからも馬鹿にされています。降りられないのです。そして、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(15章34節)と叫んで、死んで行きます。福音書に典型的な、十字架上のキリストの描き方は、だいたいこのようです。この十字架上のイエスを見て、「イエス様は神様であって、万能である」というふうに考えるとするとどうなるか。「降りられない」つまり③「できない」と考えるのでなく、「降りられるのだけど、あえて降りて来ない」つまり、降りないという①「ポリシー」と取ることになるのです。

ここで、「降りられるのだけど、あえて降りて来ない」というのを②「サボっている」ととらえる場合、「十字架から降りるほうが立派」という前提となります。「十字架から降りようと思えば降りられるのだけど、めんどくさくて降りるのをサボっている」というとらえ方になります。これは、十字架上にいるほうがラクで、降りるほうがめんどくさい、という話となって、十字架上で処刑されることが非常な苦痛であることに反しますし、「イエス様は万能であって、かっこいい」という、満たされるべき聖書の読者の満足感にも反します。そこで、降りられるのだけどあえて十字架から降りないというのは①「ポリシー」で、「十字架から降りないほうが立派」という前提になるべきであることになりますが、では彼はいったい十字架上で何をそんなに立派なことをやっているのだ、ということになります。そこで「イエス様は、十字架の上で、われわれ人類の罪を贖うという、尊いわざをなさっているのだ」という発想が必要になるのです!これが贖罪論です。つまり「イエス贖罪論」とは、「イエス万能論」の要請であることに気づいたわけです。

これが、最近私が自分の特性についてよく考えたことの副産物として得た「キリスト贖罪論はどこから出て来たか」ということの認識の話でした。「贖罪論」については相変わらずよく分からないままですが「贖罪論の出所」はよく分かった次第です。

最後に、本文中で予告した、2つの記事をはります。

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