「交流」とChatGPT

私は現在、自分の修士論文をまとめた論文を書いています。最終的な調整の段階に入っています。Introduction という、他の研究との関係を書いたりするところを書いています。英語で書かねばならないのですが、私は英語があまり得意ではありません。ある先生から、近頃は英語ではAIも参考になるようですという助言をいただき、ChatGPTに相談したりしています。AIはいろいろなことに詳しすぎるほど詳しく、また、人間でないのに人間のように振る舞うのでしばしば不気味ですが、確かに、自分ではなかなか思いつかないような英語の表現を提案してきます。自分の大切な著作なのでなんでもかんでもAIの言う通りにはできませんが、確かにこのたびはAIの力も借りて、適切な表現ができた箇所も多くあると感じます。
近所に、ドラッグストアがあります。先日、ベテランの女性が、「研修中」というふだを胸につけ、にこやかにレジの業務をしておられました。想像するに、子供さんも大きくなって家でぶらぶらしていてもつまらないと思われて、アルバイトを始められたのかもしれません。たとえば、私がそのドラッグストアに、スパゲティのソースを買いに行くと、にこやかに、いくらいくらです、袋に入れましょうかとおっしゃってくださいます。これは「交流」です。人間は一日に五人の人と話をすべしとは言いますが、おばさんはレジのバイトをすることで「交流」をされているのです。近所の教会に行けば、そこはおじさんおばさんの「交流」の場です(教会というところは、教会にもよるかもしれませんが、「宗教」というより「公民館」あるいは「同好会」という雰囲気の強いところだと思います)。道を歩いていて向こうから来る人と、お互いに道を譲り合いますが、これも「交流」であり、向こうから来る人もどこかに住んでいて何かを食べている、もしかしたらきっと何かの趣味を持つ人です。
ドラッグストアのレジのバイトは、お金が流れているから、より「交流」が起きやすくなるわけです。私も近所の塾で講師のアルバイトをしています。そこでは、普通に過ごしていたら決して知り合うことのない女子高生や男子中学生と密接に知り合い、勉強を通じた「交流」ができますが、これもお金が流れているからです。つまり「スパゲティのソースが欲しい」「売ってあげましょう」あるいは「うちの子に勉強を教えてやって欲しい」「そうしましょう」というような、「困っていること」に対する「解決」を与えることで、交流は起きやすくなると気づくわけです。
先日、スマホでのある操作がわかりませんでした。先ほどのように、AIはなんでも非常に詳しいので、AIに頼ろうと思いました。しかし、こうしてなんでもAIに聞けということになったら、「交流」が減るなあと思いました。なんでも自分で解決できたら、人に頼ることもなく、「交流」が減ってしまいます。かつてある障害者福祉の相談員の方が、みんなインターネットでつながればつながるほど孤独になっていっていると言っていましたが、そうかもしれません。今度わからないことがあったら、ChatGPTじゃなくて人に聞こうかな。
