私の経歴と算数・数学に対する考え

第1章:生まれつきちょっと変わっている人

私は、発達障害と言われる“脳のかたより”を持って生まれました。簡単に言えば「生まれつきちょっと変わっている人」ということになります。発達障害の最大の特性は「空気が読めない」こと。空気が読めない代わりに、非常に論理的思考の発達した人間になりました。「論理の極致」のような学問である数学の道に進んだのも、ゆえなきことではなかったのです。

小学生のときは、ひたすら叱られ、いじめられの日々でした。発達障害ゆえにできないことがたくさんあり、特に「整理整頓ができない」「電気をつけっぱなしにする」「忘れ物やなくし物をする」などのいわゆる「だらしがない」ことで、両親や教師から厳しい叱責を毎日のように受けました。しかし、これは発達障害の障害特性であり、努力して直せるものではなかったのです。両親らから受けた叱責は、だらしなさの改善にはまったく役に立たず、自己肯定感の著しく低い人間になりました。

中学に入学すると、急に授業の内容がするすると頭に入って来るようになり、1学期の中間テストで、いきなり500人中6位を取りました。先生からも怒られなくなりました。今考えると、小学校の授業は「論理的」でなかったため、勉学さえも振るわなかったのでしょう。高校は県で一番の進学校に入学し、その学校でもかなり成績が良いほうで、現役で東京大学に入学しました。

第2章:習う前から気付いていたこと

小学校では勉学が振るわなかったと書きましたが、算数の授業で印象に残ることがいくつかありました。小学3年か4年のときの「三角形の内角の和は常に180°であることの理由」や「円周率が3より大きい理由」を考察する授業でした。円に内接する正六角形の辺の長さの和(直径が1とすると3)よりは長いからだということが分かり、とても感動しました(そのずっと後、東大の入試で「円周率が3.05より大きいことを証明せよ」という問題が出て話題になったようですが、私にはそれは極めてやさしい問題でした。東大のような良い大学になると「テクニック詰め込み型を落とし」、「勉強を学問と認識している者を取る」という「良い問題」が出ます)。

また、小学5年か6年のときに、「場合の数」を習い、4つのものの並べ方は24通りであることを習いました。先生は黒板に樹形図と言われる木の枝みたいな絵を描きましたが、それが4通りの3通りの2通りの1通り、すなわち4×3×2×1で24になることを、習わないで発見していました。このように数学上のことで「習う前から自分で気が付いていた」ことはいくつかあります。

中学では、平面図形を習ったのち、空間図形を習いました。そこで私がごく自然に向かった興味が「4次元」でした。平面(2次元)の次に空間(3次元)を習うならば、その次はごく自然に4次元という発想になったのです。最初に考えたのが、点→線分→正方形→立方体と来て、その次に来る4次元の図形は、いったい頂点がいくつで、辺がいくつで、面がいくつで、体がいくつであろうか、という問いでした。これも相当長く考えた末に結論に達しました。その図形の概形も描けました。この「見えないのだけれども考えると、ある」という現象そのものに魅せられていたと思います(当時はインターネットなどまったくなく、ひたすら考えるしか方法がなかったのがまた良かったかもしれません)。

また、2直線の位置関係についても考えました。平面上で2直線の位置関係は「1点で交わる」「平行」「ぴったり重なる」の3種しかありません。3次元空間ではこれに「ねじれの位置」が加わります。これが4次元に行ったら、いったいどのようなものが加わるであろうか、真剣に考えたものです。1か月くらい考えたでしょうか。私はひとつの結論に達しました。「もう増えない」のです!これも非常に興奮させられたことを思い出します。これだけ興奮したのは、私は「増える」と思っていたのに、結論は「もう増えない」ということだったということにあると思います。

中学時代、父からBASICの初歩を学びました。インターネットのない時代でしたが、自宅に旧式のパソコンがあったのです。私はプログラミングにハマりました。今から考えると「プログラミング」というものの本質は「機械という『空気の読めない』ものに、『論理で』ゼロから教えてやる」というものであるため、論理的な私はプログラミングが得意なのでした。だいたい世の中のプログラミングできそうなことはプログラミングしました。例えば「4以上の偶数は、2つの素数の和で書けることを、偶数の小さい順から確かめ、反例があったら止まる」というプログラムを書きました。これは当時から現在まで未解決問題だろうと思います(ゴールドバッハ予想と言います)。46歳になったころ、エクセルのマクロ(VBAという言語)を学んだとき、このプログラムをすぐに再び書くことができ、「中学の自分に追いついた」と達成感を味わいました。

第3章:学問は「結論ありき」ではない

高校では、ベクトルを学んだとき「え?数でないものを足している!すごい!」と思いました。また、xが充分に0に近いとき、sin xとxの比が1に近づくこと(*)の証明で円の面積の公式を使っているので、すぐにそれが循環論法であることに気が付き、職員室に質問に行きました(円の面積の公式は小学校で習っただけであり、それは暗黙のうちに(*)を使っているのでした)。いまだに高校の教科書のこの証明は30年前当時から変わっていません。

4次元のほうはさらに発展しました。「習っていないうちから自分で気が付いていた」ことの最も大きなものとして「積分」があります。これは微分を習うよりも前に気が付いていました。当時のカリキュラムとして微分よりも先に物理で「速度」を習いました。時間が少しだけ進むと距離が少し進む(微分です)。この考えはおもしろく、この考えをうんと展開すると、面積や体積が出るのではないかと思ったわけです。これを考えた動機は、4次元での体積を求めたかったからです(三角形の面積が長方形の面積の2分の1であり、円錐の体積は円柱の体積の3分の1であることから、4次元に行けばそれは4分の1になるのではないかと考えたわけです)。

高校では、「自由研究」というものがあり、好きな生徒だけがやればよいのですが、自分で考えたことをレポートにしてまとめて提出するというものがありました。私は中学から考えて来た4次元に関することをレポートにまとめ、高2のころだったかに提出し、金賞をいただきました。その学校では、過去にその学校の自由研究で金賞を受賞した人間の名前が書かれていましたが、私以外に理系分野で金賞を受賞した人間は、過去10年にいませんでした。その学校からは現役浪人あわせて当時20人くらいが東大に行っていました。うち理系が10人としたとしても、したがって私は並みの東大生ではなく、少なく見積もっても「東大生100人に1人」くらいの逸材だったことになります。

このように自ら考え、発見する感動を繰り返し、私は学問というものは「結論ありき」ではないのだということに気が付いたのです。

高校の数学で最も「嫌だ」と思っていたものは「複雑すぎる漸化式(ぜんかしき)を解くこと」と「複雑すぎる積分を計算すること」でした。このころからはっきりと私は「受験数学(テクニック数学)ではなく学問数学」という側面を持っていたことになります。

第4章:着実に伸びていった東京大学・東京大学大学院時代

「大学に入った瞬間がピーク」という周囲によくいる東大生とは違って、私は入ってからも着実に伸びていきました。学部に5年在籍していたのは、20歳のときにちょっとした統合失調症の症状が出て、1年学業を休んだことによります。数学科という特殊な学問に進んだのは、先述の高校の自由研究で金賞をいただいたことなどにもよるでしょう。とにかく自分に向いている学問は数学だという自覚はありました。「集合と位相」「多様体」「ホモロジー、コホモロジー」「微分形式」などに惹かれ、そのなかでも位相幾何学(トポロジー)が私の目指す学問でした。

大学院は「東大数理」(東京大学大学院数理科学研究科)というところで、極めて難関なことで知られる大学院でした。定員40名のところに120人くらい受けに来て、しかも20人くらいしか取らないのです。しかし入ってみてからこれは「厳しさ」ではなく「やさしさ」であることが分かりました。その難関の大学院を受かっても「研究の厳しさ」で大学院を去って行く者がしばしばいるのです。しかも数学という学問はかたよった分野で、数学者にならないとしたら取る道は極めて限られているのです。それで「入り口で可能な限り厳しくする」のは「やさしさ」だと分かりました。

ともあれ、私は大学院でも優秀でした。最初に指導教官の先生から与えられた論文は、1980年に出版されたある有名な論文でした。その発表を行ったときも指導教官の先生は「なかなか明解でした」と珍しくほめました。

「明解」という言葉の意味は「論旨がはっきりしていてあいまいさがない」とか「論理的で穴がない」といったところでしょうか。数学のセミナーで最も見られている点が、その「明解さ」でした。次に1999年のプレプリント(出版前の論文)をいくつか示されました。先ほどの1980年の有名な論文のアイデアを使った当時最新の研究の成果でした。1980年の段階で「難しい」と書かれていたのは、一見すると「構成が難しい」のかと思ってしまいますが、よく読むと「構成はできるのだが応用が難しい」のだと分かりました。その応用が1999年くらいに相次いで2分野であったのです。仮にP分野とQ分野としましょう。P分野の立場から書かれた論文(複数)、Q分野から書かれた論文と、両方ともありました。私はあらゆる先行する論文を検討し、自分で新しい概念を導入し、両方の分野ともに最も厳密で「明解」な証明を与えることに成功しました。修士課程1年の12月のことです。指導教官の先生に報告したのはそのしばらく後でしたが、「修士論文としては充分すぎる」と言われました。そして、その先生の手に負える学生ではなくなっていた私は、その道の世界的権威の先生が同じ大学院にいたので、その先生のセミナーに出ることもすすめられ、すぐに、当時のある大きな未解決問題の解決に結びつくのではないかという新しい応用のアイデアを得て、さきほどの定理を第1主定理、これを第2主定理として修士論文を仕上げました。このころの私はアイデアが頭から豊富に出ていました。

第5章:「明解」を探究するスピリットを培う

首尾よく修士論文を提出した私は博士課程に進みました。そこで私を待っていたのは発達障害の二次障害の精神障害でした。極めて重い精神障害で大学院を2年休みました。数学の論文を見ると発作が起きるようになってしまい、これまでのようにアイデアが湧き出なくなり、数学者の道をあきらめざるを得なくなりました。睡眠障害も起こり、今でも悩まされています。

当時の先輩・同輩・後輩は、だいたいどこか名門大学の教授か准教授になっています(数学科を置く大学は一定水準以上の大学だと最近分かりました)。私は彼らより優っていたとは言わないまでも、劣っていたわけではありませんでした。私は専門を間違えたわけではなかったのです。最も向いている学問である数学を選び、その中でも最も向いている位相幾何学の世界にまでたどりつき、そのように優秀な修士論文を書いたのです。この結果はのちにある大学の先生(P分野)に本質的に引用してもらって使ってもらい、そして別の大学の先生(Q分野)のところで2時間の枠をいただいて講演をしました。一緒に行った後輩も「これ修論ですよね?ぼくの修論なんて計算ガリガリですよ」と感心してくれました。彼も今はある名門大学の教授です。また、呼んでくださったQ分野の先生も絶賛であり、「発表は明解で、出版前から引用されているし、先行する論文に疑問を投げかけているし(私の論文は最も後発であったため、最も厳密であり、「これが足りないですよ」というリレーションと言われるものがあったのです)、要所要所で笑いも取っている」と言ってくださいました。その論文の出版を強力に推してくださいましたが、私はその論文は結局、出版できませんでした。

しかし、この大学院での経験は得難いもので、「明解」な数学を探究する「スピリット」は今の私にしっかりと息づいています。小学生に算数を教えるときも、私はごく自然に「大学院における数学のような」学問的で論理的で「明解な」教え方になります。いわゆる「分かりやすい」教え方ではありません。「分かりやすい」のと「明解」なのは異なるのです。その目で見てみると、算数の教科書・数学の教科書には無数の「突っ込みどころ」があることもよく分かります。

第6章:数学者の道を離れ、中高の教員となる

数学者の道を断たれた私は、20代も終わりかけの年齢で、つぶしの効かない数学という分野におり、少しずつ揃えていた教職の単位をとって中高の教員になろうとしました。しかし、私は専門の数学を極めすぎていて、中高の数学などすっかり忘れていたのでした(例えば2次方程式の解の公式など)。私が学んだ数学すべてを100とすると、高校までの数学は、1にも満たないという実感があります。それくらい私は大学と大学院で本気で学んだのです。高校までの数学をすべて忘れているわけですから、あちこちの採用試験に落ちました。もうどこでもいいから内定が出たところにしようと思い、見知らぬ地の私立中高を受け、そこは小論文と面接しかなかったため内定をもらうことができました。

しかし、発達障害ゆえに「空気の読めない」「同時に複数のことができない」私は「教員」などという典型的な「人間力」の仕事はまったく向いていないのでした。そればかりではありません。私の学んできた数学が徹底的に「学問数学」であることが災いしました。私の授業はとにかく「分かりにくい」と言われ、「教科書の丸写し」と言われました。同僚の数学の教員から「自分が分かりやすいと思うような授業をしろ」と言われていましたが、その「分かりやすい授業」とは、「論理で書いてある」教科書を「空気で」教えることだったのです。私の授業は、「分かりやすい」授業、つまり「多くの生徒にとって分かりやすい」のではなく、「分かる」授業、つまり「明解」な授業だということに気づきました。

私は教員としての最後の年度、あるベテラン教師の数学の授業を見学しました。高2の「数列」の授業でした。さすがベテラン、50分きっちりおさめます。最初は感心して見ていましたが、私には話している人がどの程度の理解度なのか、手に取るように分かります。漸化式あたりから、「この教師は、『漸化式』について、根本的に理解していないのではないか」と感じました。漸化式のテクニカルな解きかたについては、私が数列を教えるときよりもはるかに詳しく教えていました。しかし「数学的帰納法」に至っては彼はまったく理解しておらず、ただ解きかたを教えているだけでした。

第7章:100%、ピカー!っと光るように「分かる」授業

私はたくさんの「なんとなく分かった」という生徒さんに出会ってきました。しかし、私にとって「分かった」とは、100%、ピカー!っと光るようにすべてが分かった状態を指すのであり、「なんとなく分かった」というのは「分かった」うちに入らないのです。だんだん明らかになっていったのは、「なんとなく分かった」という生徒さんは、なんとなくテストで良い点をとり、なんとなく良い大学へ進学していくという事実でした。

この学校には、自分より数学のできる人は、教員も生徒も含めて、いませんでした(東大・東大院にはたくさんいました)。ただし、自分より上手に数学を教えることに長けた人にはたくさん出会いました。私は何年たっても上手に数学を教える教師にならなかった(なれなかった)からこそ、ついに教員をやめさせられたのです。それほどまでに「ダメ教員」でした。その原因は、「私があまりにも本格的な数学を修めて来てしまった」ことにあるのでした。私が教員として成功するためには、ただ受験テクニックを教え、ガリ勉をさせる教員になる必要がありました。しかし、私はどこまで行っても「学者」なのでした。数学は論理でできています。しかし世の中は論理でまわっておらず、空気で動いています。ただひとり、空気が読めず、論理で動こうとしている私は、排除されてしまったのでした。

教員として、一度だけうまくいった5か月間があります。2015年の1学期、中学1年の幾何(図形分野)を任されました。私は徹底的に「直線とは何か」「円とは何か」といったことを、教科書をもとに本質を突き詰めて授業を展開しました。多くの中学生が興味を持って聴いてくれました。彼らはそれまで「受験算数」のひたすらテクニカルに込み入った(私に言わせると「難しい」のではなく「ややこしい」)問題ばかり解かされてきており、私の「論理的で学問的な」授業は新鮮だったのです。私の授業は、内容は中学1年の数学でしたが、スピリットとしては大学院の数学のようでした。前年の先生(とても良心的な先生でした)の授業の評判を、1学期中間テストの際のアンケートで9%も上回る「興味深い」という結果を出しました。なぜこの勢いが5か月で終わってしまったかと言いますと、長く続いた「躁」が終わって「うつ」になったからでもありますが、直接の引き金になっているのは、そのころから、中学1年の幾何は空間図形となってきていて、「論理的でない、直感に頼った説明」が多くなり、「論理的で学問的な」授業が不可能になったからでした。例えば「同一直線上にない異なる3点を通る平面は、ただひとつ存在する」といったことは「明らか」であるという前提を通過しなければならなかったので、賢い生徒さんほど納得できないようでした。しかし、私には「論理的で学問的な数学の授業は可能だ」という手ごたえが残ったのです。

第8章:数学という学問のもつ本質的な厳しさを教える

ここまでお読みくだされば、私の特徴や傾向はだいたいつかんでいただけたのではないかと思います。最近、小学5年生の算数の個人指導をしています。その生徒さんは、典型的な空気の読める普通の生徒さんです。最初は私のペースがつかめなかったようです。私の教え方は、どうしても「小学校の先生」のようにはならず、「学問算数」になりました。最初はその生徒さんを泣かせてばかりいました。その生徒さんは、論理で教えているこちらの話を、まるで空気を読むように聞いていたのです。その生徒さんを泣かせていたものは、私の厳しさではなく、「数学という学問のもつ本質的な厳しさ」だったと思います(私はやさしい先生です。なめられるほどに)。私は空気で教えるのでなく「論理的に、学問的に」教えようとしていたようです。

しかし、半年くらいかかって、その生徒さんは私のペースを理解しました。いまではその生徒さんに尊敬されつつ、楽しく算数の勉強をしています。私は、このように1対1なら、小学校の算数でさえも、「論理的に、学問的に、私のペースで」教えることができるということをつかみました。そして、それは好評を得るものだったのです。

第9章:数学とは文学のようなものであり、論文とは思想を書くようなものである

数学は決して「問題を解く」だけのものではありません。数学とはいわば文学のようなもので、論文とは思想を書くようなものです。多くの人は「文学」と聞いて即「問題を解く」と連想はしないのではないでしょうか。「文学」といえば「高校までの国語」を連想し、「作者の言いたいことはなにか」とか「この漢字の読みはなにか」といった「問題」ばかり連想なさるかたには「文学」も「問題を解く」ものかもしれませんが、少なくとも私にとって数学とは「問題を解く」ものではありません。ほとんどの皆さんが、数学と言えば「やたら学生時代に問題を解かされた」という記憶ばかりあるせいで、親御さんも生徒さんも、教員さえも、みんな数学は「問題を解く」ものだと思っているのです。「先生、そんな理屈はいいから解きかたを教えて」というふうになります。人はいつからそうなるのでしょう。

もうひとつのポイントは「別に数学が好きにならなくてもいい」ということです。親御さんの「数学が好きになってほしい」「数学が得意になってほしい」あるいはご本人の「数学ができるようになりたい」という思いの背後には、暗黙のうちに「良い成績を取って、良い大学に入ってほしい(入りたい)」という思いがあるということが、私の11年の教員生活から明らかになっています。

第10章:ともかくつながる。ともかくともにいる。「伴走型」の数学

34年前から北九州でホームレス支援を始めた奥田知志(おくだ・ともし)さんがよく言うこととして「問題解決型支援」と「伴走型(ばんそうがた)支援」の話があります。従来の支援は「問題解決型」であったと。これは「願いがかなう」ことであり、また宗教でいえば「御利益(ごりやく)」です。食べるものがない人には食べ物を。住むところがない人にはアパートを。しかし、それだけでは「支援」にはなりません。肝心なのは「伴走型支援」。問題は解決しないかもしれないけれど、ともかくつながる、ともかくともにいる。確かにお金は大切ですし、「食う寝るところに住むところ」がなければ、人は生きていけません。しかし最も大切なのはそれではなく、「人とのつながり」だと奥田さんは言います。

人は一人では生きていけません。人には愚痴を言う相手が必要です。甘える相手が必要です。本当に必要なのは「支援」でもなく「友達」なのです。私の目指す教育もこれに非常に近いです。すなわち「問題解決型」ではなく「伴走型」だということです。「ともかくつながる」。すぐにテストの成績がよくなるわけではないかもしれないし、私の講座を受けたからとて良い大学に受かるとは限らない。もちろん「問題解決をやめた」と宣言しているわけではありません。しかし結局、私のような「本質追究型」が、最終的に現役で東大に合格する「受験の勝利者」となるのです。面倒を見させていただくからには、理解できるようになれるよう最善を尽くしますし、テストで良い点が取れたら素直にともに喜びたいと思います。そして、わからないことがあったらともに苦しみたいと思います。

奥田さんが「支援」という言葉さえ使いたくないのと同様、私も本当は「教育」という言葉も使いたくないくらいで、「友達」というのが最もしっくりきます。私は皆さんの友達になりたいです。幸い、数学というものは、論理でできていますので、思想や信条や宗教などに左右されません。誰がやっても1+1=2になるところが数学のフェアでいいところです。「なんの役に立つのか」と言う前に、「ともかくつながる」というのを目標にしたいです。