最近ドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴いて思ったこと

最近(2026年6月20日)、有名なドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴きました(宮之原陽太独奏、寺岡清高指揮、ニシ・グラデュエイト・オーケストラ、なかのZERO大ホール)。やはりすごい名曲だと思いましたが、以下のホルン三重奏を聴き、思ったことがあります。

楽譜を挙げますが、私の楽譜作成ソフト(ミューズスコア)の使い方の稚拙さより、いくつかの問題のある楽譜です。Horn in F 1と書いてあるものがホルン1番2番であり、Horn in F 2がホルン3番です。さらに、ホルン3番をドヴォルザークはヘ管ではなくハ管で書いています。ドヴォルザークの書いたスラーやダイナミクス(強弱)等は省略しています。それ以外は正確な楽譜です。

これは、第2楽章の中間あたりにある印象的なホルン三重奏です。第2楽章の冒頭に木管楽器で出る主題が何度か変奏され、ここに出ます。この楽譜で3小節目の2拍目に、即興的な3連符があります。これを聴いて直観したのです。おそらくドヴォルザークは、この3連符は筆の勢いで書いたのでしょうが、「自分は、自分の思った通りに書くほど、世間で受け入れられる」と思っている作曲家の「自信」が感じられると思ったのです。

ドヴォルザークは、作品に当たり外れのある作曲家であるという気がします。たとえば、ラヴェルが、書いた作品はすべてヒットさせる方針で、計算ずくで書いているように思えるのに対し、ドヴォルザークは、いい意味で感性で作曲しているかのようです。39歳ごろ書いた交響曲第6番は、ブラームスの交響曲第2番の影響下にあるとよく言われます。48歳ごろ書いた交響曲第8番では、大分「ドヴォルザーク節」が発揮されています。有名な「新世界交響曲」は52歳ごろの作品、今回のチェロ協奏曲は、54歳ごろの作品です。これらは、ドヴォルザークが(ブラームスの亜流ではなくなっていき)自分らしくなっていく過程を示しているとも言えます。このころドヴォルザークは売れていたと思います。自分の思うままに、筆の向くままに書けば書くほど、自分は世間から受け入れられるのだ、という自信にあふれたドヴォルザークの思いをこのたびこの3連符から感じたわけです。

この3連符は、かっこつけているとも言いますし、一種のファンサービスであるとも言えます。実際にこのチェロ協奏曲は、非常にかっこいい曲ですが、かっこつけている人はときにダサく見えることもあります。ドヴォルザークの曲にときどき感じられる、ある種のダサさは、こういうところに一因があるのかもしれないともこのたび思いました。

1995年に、私は大学のオケでドヴォルザークの交響曲第8番をやりました。練習のとき、指揮者の先生が、以下の、第1楽章の序奏が終わったあとにヴァイオリンに出る音型を「作曲家はかっこいいつもりかもしれない」と言いつつ指揮をなさったことを思い出します。これも「ダサいかもしれない」という意味でもあり、そのように思いのままに振る舞うほどに自分の作る曲は受けるはず、という作曲家の自信にあふれた思いが感じられるということかもしれません。そのようなことを思いつつ、このたびはドヴォルザークのチェロ協奏曲を聴きました。

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