自伝風の読み物 ㉗ 修士論文(第一主定理)

「自伝風の読み物」最後から二番目の記事になります。1999年に私は修士課程の学生となりました。修士論文の話を書こうと思います。ここまで、専門的な話にならずに、記事が書けていました。この記事と次の記事だけ、急に専門的な話になります。数学では、専門が細かく分かれており、少しでも自分と専門が違う場合は、証明まで含めて理解することは困難となります。そこで、この記事(と次の最後の記事)は、おおまかにどういう研究であったのか、専門でない方にも通じるように書く、という方針で執筆したいと思います。(あくまで、修士論文の要旨となります。詳しくは、これから出版するつもりである、論文そのものをご覧ください。)
最後に参考文献のリストを載せますが、私の修士論文は、[F]です。2001年1月に東大数理に提出しました。私はそのあと、博士課程1年のときに大きな病気をやり、この論文は、論文雑誌に投稿されていません。インターネット上にも存在していないので、世界に10部も存在していないと思います。2004年に、佐賀大(当時)の市川尚志先生によって引用され、その論文は論文雑誌に載っています([Ic])。私は修士論文を書いたときに、佐賀大(当時)の広瀬進先生に1部お送りしており、市川先生は、広瀬先生から私の論文を入手なさいました。
内容ですが、ある亜群(groupoid)の表示を与える研究です。1999年当時、ホットだった研究です。私は、先行する論文をいくつか読み、それらを比較検討し、新しいcomplexを導入しました。私の結果は、先行する論文とほぼ同じになりましたが、細かく見ると、先行する論文にはないリレーションが私の修論にはあります(後で触れる「2A」)。表示というものにおいて、リレーションは、多いぶんにはかまいませんが、少ないぶんには困るものです。私の証明が最も厳密だと思いますので、先行する諸先生方の結果に少しgapがあるのかもしれないと思われます。
これはM1のときの結果であり、このあと、私の作ったcomplexには、Torelli群という群がfreeに作用することが分かり、それは、当時、分かっていなかった(いまも分かっていないかと思います)Torelli群の表示を与える可能性があったので、それを第二主定理として、2001年1月に提出したものです。この後半の話は稿を改めます。本日の記事は、第一主定理に関するものです。
このたび、25年ぶりに、自分の修士論文を東大数理から取り寄せ、読み返してみました。当時の自分の証明は、どうにか思い出せます。読んでみて思いましたが、学術論文というより学生レポート風の書であり、諸先生方がおおざっぱに証明を飛ばされたようなところを、ていねいにうめるという感じの書です。そのようなことはほぼ当たり前ではないかと思うようなところにも、いちいちていねいな証明をつけています。証明はすべてエレメンタリーなものです。(自分ではどうも幼稚な研究のような気がしており、当時、自分の研究の価値はよく分かっていませんでした。)
今回の記事は、物語調で書きたいと思います。どのように第一主定理に至ったか、そして、2004年に引用され、同年、岡山大で講演を行ったところまでを書きたいと思います。
1999年4月、最初に先生に与えていただいた論文は、[HT]でした。私はM1の頭に教育実習に行きましたので、開始が6月くらいになりました。[HT]は、曲面の写像類群の表示を最初に与えた論文です。1980年に出版された論文で、当時すでに、19年前の論文であったわけです。曲面上のup to isotopyな構造で、cut systemというものを定義します。図1をご覧ください。種数${g}$の閉曲面上の、${g}$個の単純閉曲線の集合です(complementが${2g}$個の穴のあいた球面になる)。cut system の間の、simple move というものを定義します。図2をご覧ください。simple moveの逆向きもまたsimple moveになります。ここで、cut systemを0-cellとし、simple moveを1-cellとしたcomplexに、2-cellを3種類、定義します(図3の三角形と、あと、四角形と五角形があります)。それで、2-cell complexが構成されるわけですが、[HT]の主張は、この2-cell complex(cut system complex)が、連結かつ単連結であるというものです。ここから、曲面の写像類群の表示が得られます。この定理は、Cerf理論というものを用いて証明されます。

図1

図2

図3
教育実習を終えた私は、セミナーで発表する準備をしました。Cerf理論は、(ぶ厚い本になっていましたが、)結果だけを見ました。Cerf理論は、いわば「動くモース理論」のようなもので、[HT]では、それを2次元の場合に使っているのでした。私は、1999年6月に、確か3回くらいかけて、セミナーでこの論文の紹介をしました。すぐれた論文を読むときにしばしば感じたことですが、すぐれた論文ほど、「そういう発想はなかった」と思うような、意表をつく発想で書いてあるものです。なかなか思いつかない発想で書いてあるからすぐれた論文であるとも言えます。(すぐれた映画やマンガが、しばしば「よくそんな発想が出たな」という発想でできていることに似ているかもしれません。)この[HT]も、そのようなすぐれた論文でした。先生は、私の発表を聴かれ、なかなか明解でした、こういうのおもしろいですかとおっしゃり、次なる論文を紹介してくださいました。それが、[FG]であり、[BK]でした。同じ日だと思いますが、東大の、トポロジー火曜セミナーで、都立大(当時)の中村博昭先生が、曲面のキルト分解についてのお話をされました。
ここでお断りをしなければなりませんが、これらの一連の研究は、どういう背景があり、どういったことに利用されるのか、は、私はよく分かっていませんでした。いまだによく分かっていません。ここでは、topologicalな面だけに限ってこの記事を書きます。(それが本質であるようです。)
先ほどの[HT]のappendixに書かれた話があります。頂点を、cut system ではなく、曲面のパンツ分解にしても、同様に、連結かつ単連結な2-cell complexは作れるのです。ただ、難しいと書いてありますが、これはそういうcomplexの構成が難しいと言っているのではなく、写像類群の研究に用いるのが難しいと書いているのです(パンツ分解は、写像類群の元ですべて写り合わないから)。この1980年の論文のアイデアが、19年くらいたって使われたタイミングが、私がM1であった1999年ごろのことであり、[FG]は、その[HT]のappendixのアイデアで、頂点を曲面のパンツ分解とし、S-moveとA-moveという2種類の1-cellと、何種類かの2-cellで、連結かつ単連結な2-cell complexを作っています(Hatcher complex)。まったく同じものを、Hatcher 自身も作っています。証明もほぼ同じで、Cerf理論によります([HLS])。
先ほどの中村先生のお話は、曲面のパンツ分解にさらに構造を付け加えた、曲面のキルト分解(quilt decomposition)というものを考え、それを頂点とした、連結かつ単連結な2-cell complexを作る話でした(extended Hatcher complex)。曲面のキルト分解について、図4をご覧ください。パンツに「縫い目」があります。キルト分解も曲面上のup to isotopyな構造です。

図4
[FG]は、曲面のrigid structureというものを頂点とする連結かつ単連結な2-cell complexを作っています。[BK]は、“marking”と呼んでいますが、[FG]とほぼ同じものを、別な証明で作っています。いずれも曲面上のup to isotopyな構造です。私はそれらを比べ、曲面の色付きキルト分解(colored quilt decomposition)というものを考えました。それは、rigid structureを簡単にしたもので、quilt decompositionと関係のあるものです。キルトの片面に色をつけたものです。図5をご覧ください。colored quilt decompositionの色を忘れたものが、quilt decompositionです。colored quilt decomposition の隣り合う単純閉曲線上のキルトの色はつながっていなくてはなりません。

私は、colored quilt decomposition を頂点とした、2-cell complexを構成しました(colored extended Hatcher complex)。1-cellは、S-move、A-move、T-move、B’-moveの4種類です。先行する諸論文とほぼ同じになりました。B’-moveは先行する論文のB-moveに相当しますが、こちらのほうがいいと思うものです。(これを、合唱をしている仲間の前でしゃべったとき、これは合唱だと言われました。確かに、ソプラノ、アルト、テノール、バスに見えます。たまたまですが。)2-cellも、先行する諸論文とほぼ同じになるのですが、2Aという2-cellは、先行する論文にありません。これが連結かつ単連結であることが、私の修士論文の第一主定理です。証明は、Hatcher complexの単連結性を使うのと、あとはエレメンタリーな議論です。
これは、1999年度の夏から秋にかけて考え、12月の数日間で考えました。私の論文を書くスピードがすごく速ければ、修士課程を1年で終えることもできたことになります。先生に報告したところ、渕沢君の作ったcomplexが、とてもよいものなのでしょうね、修士論文としては充分ですけど、と言われました。
このあと、Torelli群の定義を読んだときに、Torelli群のこのcomplexへの作用がfreeであると直観して、それは証明できるのですが、それは稿を改めます。先述の通り、私はD1のときに大きな病気をして、2年くらい学業を休み、そのあと、復帰したものの、もう前のような冴えた頭ではなくなったと感じており、数学の研究で生きることをあきらめたころ、2004年に、市川先生から私の結果を用いてくださった論文を送っていただき、それで、当時、岡山大に移っておられた中村先生に招いていただき、岡山大で120分の講演を行うことになったのでした。今でも予稿がインターネット上に残っています。 集中講義・談話会・シンポジウムのお知らせ 中村先生は、私の話を聞かれ、発表は明解であり、出版する前から引用されているし、先行する研究に疑問を投げかけているし、要所要所で笑いさえとっている、とおっしゃり、必ず出版しなさい、とおっしゃってくださったのでした。私は、そのころ、もう研究で生きることをあきらめており、出版しないままで今日に至っているわけです。
この研究は、先行する論文のいくつかを読んだら当然のように至る帰結であると思っており(今でもそう思いますが)、大したことをしていないと思います(今どきのAIに先行する論文を読ませたら、AIはササっと書きそうな論文です)。それでも、私にとって、唯一のクリエイティヴな著作であり、長い年月が経過してしまいましたが、「記念投稿」として、出版をがんばってみたいです。
References
[BK] B.Bakalov, A.Kirillov Jr., On the Lego-Teichmuller game, Transform. Groups 5 (2000) no. 3, 207-244
[F] H. Fuchizawa, Quilt decompositions of surfaces and Torelli group action on extended Hatcher complex, preprint
[FG] L.Funar, R.Gelca, On the Groupoid of Transformations of Rigid structures on Surfaces, J Math. Sci. Univ. Tokyo 6 (1999), 599-646
[HLS] A.Hatcher, P.Lochak, L.Schneps, On the Teichmuller tower of mapping class groups, J. Reine Angew. Math. 521 (2000), 1-24
[HT] A. Hatcher, W. Thurston, A presentation for the mapping class group of a closed orientable surface, Topology 19 (1980), 221-237
[Ic] T. Ichikawa, Teichmuller Groupoids, and Monodromy in Conformal Field Theory, Commun Math. Phys. 246, (2004) 1-18
[NS] H. Nakamura, L.Schneps, On a subgroup of the Grothendieck-Teichmuller group acting on the tower of profinite Teichmuller modular groups, Invent. Math. 141 (2000) no. 3, 503-560
