算数・数学は「問題を解くもの」か(私はそうは思わない)

私は、東大数理の博士課程を単位取得退学したのち、私立中高一貫校の数学の教員を11年し、事務職員をへて4年前に独立しました。中高教員のころよく感じたことがあります。それは、生徒の皆さんも、教員の皆さんも、保護者の皆さんも、数学を「問題を解くもの」ととらえておられるということです。私は、数学を「問題を解くもの」ととらえておらず、「考えるもの」だと思っています。本日は、この「数学は『問題を解くもの』か」ということについて、考えて参りたいと思います。(この件については、2年ほど前に、当教室のトップページで論じていましたが、改めて書いてみたいと思います。)

なお、この稿で、数学と算数は区別せず「数学」ということにします。4年前に当教室の名前「星くず算数・数学教室」をつけるさいに調べて知ったのですが、数学の国際語である英語において、数学と算数の区別はなく、mathematics(数学)というのです。日本語で、最初の6年間に学ぶものを「算数」と呼ぶだけであることを知ったわけです。以下、数学と算数の区別はせず「数学」といいます。

半年くらい前に、ある本を読みました。脳のはたらきと、数(数学)に関する研究についての本でした。最初のページに、いかにわれわれにとって、数(あるいは数学)が身近であるかについて、書いてありました。スーパーに行って買い物をし、レジに並ぶとき、並んでいる人数が少ない列に並ぶであろう。また、りんご3個パックを手に取って買おうとしたとき、すぐ近くで、りんご5個パックが同じ値段で売られているのに気づくかもしれない・・・。著者の言いたいことはわかります。「レジに並ぶ人数」「りんごの個数」「値段」など、これらは普段、「数」(あるいは「数学」)と意識しないで使っている「数」(あるいは「数学」)であると言えるかもしれません。

しかし、私がこの記述を読んで思ったことは、以下のようなことです。りんごの5個パックなんて、あるだろうか。それくらいの個数のりんごを買うときは、通常、箱で買うものだ。りんごの2個パックはスーパーで見たことがあるが、りんごの3個パックや、りんごの5個パックは見たことがないぞ。私はこのように思ったのです。この本は、数について、数学について書いてある本でしたが、冒頭からこのように現実的でない例が載っているのです。私が、世の多くの人が、数学は問題を解くものと思っていて、私は、そうは思っていないことの典型的な例だと思ったので、挙げさせていただきました。数学とはなるべく意味を考えず「りんご5個パックとりんご6個パックをあわせると、りんごは何個ですか」「5+6=11で、11個です」「正解!」とすばやく答えるというようなものなのでしょうか。

(ここ数年、当教室で授業をしていて、「数学の文脈で『りんご』というとき、それは象徴的なものであって、具体的に意味を考えるものではない」という前提の発言に出会ったことが数度あります。この著者も同じ感覚かもしれません。)

もうひとつ、例を挙げます。数年前、小学校の教科書で見た例です。4年生の教科書で、「小数わる整数」の計算を習ったところに載っている問題です。「同じかんづめ6個の重さをはかったら3.36kgありました。このかんづめ1この重さは何kgですか」と書いてあり、その隣に、同じかんづめ6個が電子はかりに載せられ「3.36kg」と表示されているイラストが載っています。これはきっと、「3.36÷6」を計算するものでしょう。しかし、かんづめ1個の重さが知りたければ、はかりに6個載せて測って6で割るより、そもそも1個載せて測ればよいではないか、ということも言えます。テストでこういう問題が出たとき「1個測ればよいではないか」と答えたらどうなるのでしょうか。(いまどきのテストはマークシート式で、数字以外のものは入力できないかもしれません。)もっというと、「かんづめの重さは缶に書いてある。それを読めばよい。いちいちはかりを出さなくてよい」というところかもしれません。

(上の挿絵では、無料で手に入るイラストがかんづめ5個の絵だったので、かんづめ5個の問題にしました。)

これらは私の考える「数学は問題を解くものではなく考えるものだと思うが、世の中では数学は問題を解くものだと思われている」ということの例ですが、ただ、世の中の塾で、「数学は問題を解くものではありません。考えるものです」あるいは「数学を楽しく(興味を持って)学びましょう」というスローガンが、たくさん出回っているのはなぜでしょう。私と同じように考える塾関係者(学校関係者)は多いのでしょうか。そうではないと思います。世の中の塾あるいは教育機関で「数学は問題を解くものではありません。考えるものです」とよく言われるのは、以下の意味だと思います。「数学は問題を解くものではありません。意味を考えるものです。意味を考えることによってこそ、より深く問題が解けるのです」。つまり、あくまで数学(あるいは広く学問)を「問題を解くもの」ととらえておられるのです。

確かに、たとえば大学入試で、意味を考えず計算方法だけマスターして「攻略」し、大学に入って来られるのは大学としても困るわけです。そこで、より「程度の高い」(たとえば東大のような)大学ほど、意味がわかっていないと解けないような出題をしようとします。たとえば、積分の計算方法だけマスターし、積分の中身がブラックボックスとなっている人は落ち、積分の「意味」がわかっている人こそ受かるような出題を、「いい大学」ほどしてくる、というような状況です。しかし、世の塾(学校)は、こういう出題も、「攻略」しようとします。要するにいたちごっこなのですが、そういう「いい塾」ほど、「数学は問題を解くものではありません。考えるものです。(考えることによってこそ、より深く問題が解けるのです)」と言うというわけです。あくまで数学とは(勉強とは)問題を解くものなのです。

ここで、ある、子供たちに勉強を教えるボランティアをなさっているかたの言葉を思い出します。「問題を見て、意味を考えちゃう子ほど、計算が苦手である傾向にある」という言葉です。この言葉の意味は、以下のようなものです。たとえば、「東京都世田谷区の人口は90万人で、面積は${58km^2}$です。世田谷区の人口密度を、四捨五入して、一の位までの概数にして答えましょう」という問題が、小学5年生の教科書に載っています。これは「単位量あたりの大きさ」という箇所で、${1km^2}$あたりの人口を人口密度ということを習ったので、それを計算する問いであるわけです。ここで、世田谷区の人口密度を計算するのは、それを知りたいなんらかの動機があるはずですが、「世田谷区の混み具合について(あるいは、世田谷区というところについて)」思わず考えてしまう子は、計算が苦手である傾向にあるというのです。逆に言うと、計算が得意な子ほど、意味は考えずに「90万÷58」を実行するのかもしれません。ここで世田谷区の人口密度を計算する「本当の」動機は、これは学校の先生が出した問題であって、要領よくマルをもらうことにあるからです。この現象をコミカルに描くことに成功したマンガとして、以下に例を挙げる『のだめカンタービレ』の3巻に載っている話があります。ただし、数学の例ではなく、語学(ドイツ語)の例ですが。

音大生である「のだめ」と「峰」は、勉強ができなくて、留年しそうになり、テストの前日、一級上の「千秋先輩」に勉強を教わろうとします。ドイツ語の一夜漬けです。千秋先輩は、二人があまりにできないので、

「もっと興味を持って勉強しろよ!どうしてこう言うのか?とか、この意味はなんだろう?とか!」

と怒りながら言います。二人は

「興味・・・」

「意味・・・」

とつぶやきながら教科書を読みます。日本人留学生マリコが、シュナイダー夫人の誕生パーティーに招待された話が載っています。以下ドイツ語。

マリコ「誕生日おめでとう」

シュナイダー夫人「ありがとうマリコ!こちら妹のイングリートよ」

イングリート「こんにちは」

マリコ「バルバラの隣にいる男の人はだれですか?」

ここまで読んだ峰とのだめは言います。

峰「この女、イングリートが挨拶してンのに無視か?」

のだめ「男なんか気にしてマスよ」。

さらに教科書の会話は続きます。

シュナイダー夫人「あれはわたしの夫よ」

マリコ「あなたの弟はどこ?」

峰とのだめが言います。

峰「今度は弟かよ!」

のだめ「男好きなんですかね?マリコは」

千秋先輩は

「なにに興味持ってンだ!!ちゃんと訳せー!!」

とどなるわけです。

もちろん、語学ですから、意味を考えるのこそ本来です。もともと、ドイツ語を学ぶ理由としては、ドイツ語の読み書きができること、ドイツ語が話せること、つまりドイツ語が通じることが目的であるわけですが、ここでのドイツ語を学ぶ目的は、翌日に迫った試験で先生から単位をもらい、留年をしないということにあるわけです。そこで、千秋先輩の言った「意味を考えろ!興味を持て!」というのは、先ほどの、塾のよく言うことである「勉強は意味を考えるものです(考えることによってこそ、より深く問題が解けます)」という、試験を突破するためのテクニックの意味であるわけですが、二人は、仮想現実であると多くの人が認識するところの教科書の「意味」を考えてしまっています。確かに作者(二ノ宮知子さん)はこの二人を「典型的に勉強のできない子」というふうに描くのに成功しており(つまり、「勉強の苦手な子ほど、問題の意味を考えちゃう」という先ほどの傾向を描いている)、また、教科書が仮想現実であること(かんづめ1個の重さを知るのに、6個測るのは本当はおかしいが、教科書とはそういう「教育的配慮」に基づいたフィクションであること)もたくみに描き、そして「本来、語学とは意味を考えるものなのだから、その意味では千秋先輩よりこの二人のほうが本質的には本来の学問に近いよね」という雰囲気を出すのにも成功していると言えます。

こう考えますと「数学とは問題を解くものではない。考えるものだ」という私の主張は、二つの意味があるように見えます。ひとつは「程度の高い」塾あるいは教育機関のよく言うことで、単に意味もなく計算するのでなく、その計算の意味を考えるのこそ本質だ、という考えで、もうひとつが、先ほど見た、意味を考えちゃう子は勉強のできない幼稚な子である傾向にある、という指摘です。しかし、第一の考えのほうは、「そう考えることによってより深く問題が解ける」という意味であり、結局は「数学は問題を解くものである」という考えの範ちゅうに収まっています。すると、第二の考えが残りますが、そうすると問題の意味を考えるのは(のだめや峰のように)幼稚なのでしょうか。この議論の要点は、多くの人が、数学といえば、学校の先生の出した問題を解くものであって、それを要領よく解いて、成績を上げることこそ、勉強の意義だと考えておられるということにあります。「頭がいい」という言葉はしばしば「成績がいい」という言葉と同義とされます。(実際には「頭がいい」というのは、一回しかない人生を賢く生きることかもしれないのです。本来の意味の「成績がよい」も単に「たくさんマルがもらえる」という意味ではないのでしょう。「成績」とは、先生による創造的な評価を本来は指すでしょう。)「勉強」という言葉と「テスト勉強(受験勉強を含む)」という言葉も多くの場合、同義です。本来の勉強とは、知る喜びの追求であり、それがどれほどの水準にあるのかを先生が「試しに」評価するために出しているに過ぎないのが「試験」です。その試験問題を解くのこそが目的となったら(つまり、勉強とテスト勉強が同義だったら)、本末転倒なのですが、これに気づいている人は少ない気がします。

少し例を出します。高校で三角比を学ぶときに習う「${\sin^2 \theta+\cos^2\theta=1}$」・・・①があらゆる${\theta}$について成り立つという性質は、これそのものを愛でるために習ったのかもしれません(実用的な意義を除くと)。そして、教科書の次のページを開くと、この性質をより実感するための練習問題(${\sin\theta=\frac{1}{3}}$のとき${\cos\theta}$はいくつか等)が載っていますが、じつはこの練習問題を解くのが目的で、そのために先ほどの性質①を習ったのではないか・・・という「本末転倒的な」解釈をすることも可能であることに気づきます。これに気づいてみれば、ほとんどの高校生がこの解釈(本末転倒的解釈)をしていることに気づかされ、もしかしたら教科書の著者でさえ、この本末転倒的解釈をしているのではないかとさえ思えてきます。(このことに気づいたおよそ1年前、明治時代の教科書はこうは書いてなかったのではないか、と思って明治時代の教科書を調べようとしたことがありましたが、そのとき一次資料に当たれなかったほか、当時の教科書のことを扱った現代の文献はそもそも「数学とは問題を解くもの」という前提からしか書いてないのでどうしようもありませんでした。)

(より正確に言いますと、それらの明治時代の数学の教科書等を扱った文献のほとんどは、教育学を一種の「問題を解くもの」ととらえて執筆されていると感じられるものでした。)

私は、知る喜び、生きるための知恵を伝えるという意味での、本来の教育がしたいと思っています。現代はいろいろな意味で世界が混迷を極めていますが、数学あるいは学問を「問題を解くもの」ととらえ、意味を考えないことがその(世界の混迷の)原因であると思える場合も多々あると感じています。たとえば、経済をモデル化し、数学を使って解析するとき、抽象化の過程で、意味のない「問題のための問題」を解くことに専念してしまい、しばしば危険な状態に陥ることがあるとよく言われます。極端な話では、(20年近く前の本ですが)安冨歩『生きるための経済学』で、現代の経済学が、相対性理論や熱力学の第二法則に反しているという指摘を読みました(ものすごくたくさんある選択肢から、最適なものを一瞬で選べるという仮定は相対性理論に反していておかしい等)。そこまで行かなくても、現代の諸問題を考えるとき、それをあたかも「学校の先生が出した問題」のようにとらえ、悪い意味で「意味を考えない」学問が、現代の世界を悪化させていることはあるのだろうと感じます。もう少し、私が具体的に知っている世界の「問題のための問題」の話を書きます。キリスト教の教会では毎日曜日に牧師が説教(聖書の話)をしていますが、よく観察すると、実際の世界を忘れた「聖書解釈のための聖書解釈」に陥っているのに気づくことがあります。これも、聖書を「生きるにあたっての助言集」というふうに読むのでなく「毎日曜日の牧師の話のネタ集」というふうに読んでいることになっていて意味がありません。この例は先ほどの経済学の例ほど「危険」ではありませんが、それでも、古典文学を読む意味は、先人の知恵に学んでよりよく生きることにありますので、人生がかかっているという意味では十分に危険でもあります。

子供たちの勉強をみていて、かわいそうに思うことがあります。学校の勉強についていくのがやっとの子供たちは「勉強とは問題を解くもの」でも仕方ないのかもしれません。皆さんおかしな競争(勉強ができないと希望の学校に行けず、希望する職業に就けない等)に巻き込まれており、私はただ、いい点が少しでも取れるためのお手伝いをするのみです。ただし、たとえば東大のような学校を含む、一流と言われる大学・大学院に行くことになる皆さんは、一定の割合で、学者(研究者)になると思います。(私は学部・院ともに東大でしたが、友人の多くが学者になっています。)先ほど見ました通り、理系・文系問わずいかなる分野であれ、学問は(先生の出した)問題を解くものではありません。環境問題であれ、少子化問題であれ、当たり前ですが先生の出した問題ではありません。「数学(学問)は問題を解くもの」という壮大な誤解は、ここへ至って大きな弊害となります。先ほども書きましたが、私は皆さんに、知る喜び、生きるための知恵をお伝えする仕事がしたいと思っているのです。

(「知る喜び」について一言。これは「問題が解けたときに得られる快感」と似ていますが違うと思います。答えから作られている問題が解けたときに得られる一種の快感は、パズルが解けたときの快感のようなものだと思います。「数学が好き」な人の多くは、「問題を解くのが好き」なのかもしれませんが、それは「知る喜び」とは少し違うものだろうと思います。)

「自伝風の読み物」に書きましたが(※)、私は幼少の頃、数学を「先生の出した問題を解くもの」というふうにはとらえていませんでした。n個のものの並べ方はn!通りであることも、4次元以上の空間において、2直線の位置関係は、3次元空間で起き得たもの以外にはないこと、n次元錐の体積はn次元柱の体積の${\frac{1}{n}}$であること、すべて自分で疑問に思い、自分で解決していたのであり、答えを知っている先生が出した問題に答えたわけではありません。

なお、私の未出版の修士論文(”Quilt decompositions of surfaces and Torelli group action on extended Hatcher complex”、2001年1月東大数理に提出)は、今年(2026年)に入ってから、いまだに出版する価値があると分かり、目下、出版(論文雑誌への投稿)に向けて鋭意努力中です。たった今、勉強をがんばる皆さんといっしょに、目標に向けてがんばりたいと思っています。私といっしょに勉強しませんか。

(※)「自伝風の読み物」は、昨年(2025年)11月から私が当教室のブログで連載した、自分の幼少時の体験を書いたものです。ご興味がおありの方は、ブログの中の「自伝風の読み物」のタグの記事をどうぞご覧ください。以下にリンクをはります。