「あってればマル、間違ってればバツ」

レオポルド・ストコフスキーという往年の大指揮者がいます。たとえば、ストコフスキーはエルガーの交響曲第2番を、作曲された1911年にアメリカ初演しています。当時は録音の技術などほとんどない時代でした。おそらくストコフスキーは楽譜からこの作品の価値が高いことを見て取ったのだろうと思います。私がエルガーの交響曲第2番のよさに目覚めて来たのはようやくここ数年です。ストコフスキーの先見の明にはいつも驚かされます。作曲したエルガーもすごいですけど、それを正当に評価できるストコフスキーもすごいのです。「評価はクリエイティヴ」だと思わされる一例です。

急にスケールの小さな話になりますが、私は中高の教員であった時代、定期テストの採点をしていて、参ることがありました。「採点基準」というものがあって、それに基づいて採点せねばならないのです。誰がいつ採点しても同じ採点になるような建前でした。しかし、同一人物である私が採点しても、朝、採点するのと、夜、採点するのでは、実際には違った採点になるものです。採点とは「評価」の一種です。採点とはクリエイティヴな営みなのです。

大学入試センター試験(いまは共通テストというそうですが、私はセンター試験の時代しか知りませんのでセンター試験と言いますね)は、私が高校3年生で受けた30年前から、マークシート式でした。機械が採点するのです。「あってればマル、間違ってればバツ」。しかし、採点とはクリエイティヴな人間の営みなのです。機械に人間の能力が評価できるものでしょうか。当時はまだ、マークシート式のテストというもので採点できる問題しか出せない、という認識が、出題するほう、受けるほう、双方にあった時代だったと思います。しかし、それから30年の年月が過ぎ、世の中の多くの試験がマークシート式になっていきました。いま医師国家試験もマークシート式だと聞くではないですか。そらおそろしいような気がします。

ある中学生の生徒さんが、模擬試験を受けられた話を親御さんから聞きました。1年ほど前の話です。私はその問い(いわゆる「群数列」でした)が、ナンセンスに思えましたので「このような問いに答えてなんの意味があるのでしょうねえ、と答案に書いたらどうなるのでしょう」とおたずねしますと、そもそも数字しか入力できないようになっている、とのお話でした。そらおそろしさを感じたものです。人間がAIになる練習をしているようにしか思えない!

最近、最大公約数ということに関して、見事な説明をしてくれた小学生の生徒さんもいました。きちんと最大公約数ということの意味をわかっておいでです。これは実はすごいことです。こういう能力を測る問題集を執筆なさらないのですか、ということを私におたずねになった大人の生徒さんもおられます。私は不可能だと思いました。問題集は作れるかもしれません。ただし、「評価」ができないのです。先述の「最大公約数」についてはっきりと理解なさっている小学生さんの能力を評価したのは、大げさにいえば私のクリエイティヴィティです。皆さんは「あってればマル、間違ってればバツ」という採点を信じておいでです。

私は教員であった時代、「自分が正しいと思った答えが正しいのだ」とよく言っていました。しかし、どなたも私の言葉を信用なさらず、巻末の「模範解答」を信用なさいました。でも、正しいと思ったものが正しいのです。好きなものは好き、嫌なものは嫌、こわいものはこわい、重いものは重いように、正しいと思ったものは正しいですし、わからないものはわからないのです。その自分の感覚よりも、巻末の模範解答を信じるというのは、なにかが違う気がいたします。

以上、「評価」という人間の真のクリエイティヴィティの発揮されるべき場面が、しばしばないがしろにされている例を見て参りました。「あってればマル、間違ってればバツ」というのは、現代の呪いのひとつであるようにも思います。

(文中に出てくる生徒さんにはブログにおけるエピソードの使用許可をいただいています。中学生の生徒さん、小学生の生徒さん、大人の生徒さん。)

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