障害者の仕事、健常者の仕事、芸能としての数学とAI

私は障害者手帳を持っていますが、私の独自の用語で「障害者の仕事」「健常者の仕事」というものがあります。これは、仕事の種類を言っているのではなく、以下にだんだん説明するような意味です。「健常者の仕事」とは、世の中にたくさんある仕事のうち、あれもできる、これもできる、だいたいのことは人並みにできる、そのうちから、この仕事をやろうか、と言って選ぶような仕事の選び方を指します。ほとんどの人の仕事の選び方はこれです。一方で、「障害者の仕事」とは、あれもできない、これもできない、だいたいのことは人並みにできない、これならかろうじてできるか、という仕事の選び方のことを言っています。私の場合、コンビニバイトもできない、事務員もできない、清掃もできない、という中から、数学を教えるという仕事を消去法的に選んでいるので、「障害者の仕事」という分類になります。

ここで、話の舞台を二千年前の新約聖書の時代のパレスチナにします。本質的に現代の日本でも同じです。イエスの仕事は大工でした。一番弟子のペトロの仕事は漁師でした。家を建てる仕事(大工)や、魚を捕ってくる仕事(漁師)、広く食べ物を生産する仕事は、具体的に体を動かして、人様のお役に立つ仕事であり、実際、たった今の私も家におり、家を造ってくださった方のお世話になっており、食事をするごとに、食べ物を生産してくださる方のお世話になっています。イエスの父ヨセフも大工でした。これらは「健常者の仕事」であり、先ほどは「あれもできる、これもできるといううちから仕事を選ぶ」と書きましたが、この時代は親の仕事を継いだわけでしょう。これも、人並みに大概のことができるうち、小さいころから見て育っている、親の仕事を継いだわけで、健常者の仕事です。(職業選択の自由がある現代でも、八百屋さんが家を継いだり、お医者さんの子がまたお医者さんになったりというのはよく見る現象です。)一方で、以下のようなことがあります。今度は昔の日本の話になります。「風が吹けば桶屋が儲かる」という言い方があります。風が吹くと土ぼこりが舞い、失明する人が出るので、三味線を習う人が増え、三味線の皮に使う猫が減り、ねずみが増えて、ねずみが桶をかじるので、桶が壊れ、桶屋が儲かるようですが、ここで着目するのは、失明すると三味線を習うという点です。目が見えなくなると、音楽を習うというのは、よくあることだったようです。目が見えないと「あれもできない、これもできない」という状態に陥ります。家を建てる仕事もできず、魚を捕る仕事もできなくなります。それで、音楽を聴いてもらって楽しんでもらう仕事をするわけです。(現代でも、目の不自由なすぐれた音楽家はいろいろおいでになります。作曲家・筝曲家の宮城道雄や、オルガニストのヘルムート・ヴァルヒャなど。)琵琶法師という仕事も、目の見えない人が、琵琶を弾きながら、暗唱した平家物語を語るという、おそらくお金持ちの楽しみのための仕事となるわけです。琵琶法師の平家物語の弾き語りは、現代の人のテレビのような娯楽だったでしょう。このように、芸能という、家を建てたり魚を捕ったりするような(直接はっきりと)「役に立つ」仕事ではない、音楽を楽しんでもらうような仕事が、「障害者の仕事」だったりするわけです。

私は、自分の仕事である数学も、芸能であると感じます。論文や教科書を読み、先生の話を聴いて、それを最初に考えた人のアイデアに感嘆するような一種の芸能です。本質的に、数学の役割は、それだけであるという気がします。産業の役に立つではないかというご意見もあると思います。確かにそうです。たった今、私が使っているパソコンや、流れている電気など、数学が利用された現代文明は枚挙にいとまがないと思います(パソコンや電気、エアコン等に、具体的にどういうふうな数学が用いられているのか、不勉強ですみません)。ただ、現代文明の特徴である「便利」「快適」というものは、私にはすべて虚栄に思えています。盛大な地球の無駄遣いをするだけで、人類を幸せにしているものには思えないのです。(家を建てるときにも現代は数学が用いられ、魚を捕るにしても数学は用いられているだろうというご意見もあると思いますが、たとえば二千年前のパレスチナで、家を建てるときに、現代のような複雑な数学が用いられていたわけではないと思います。)もうひとつ、「こんなに難しい問題を解いたぞ!こんなに高い学歴をつけたぞ!どうだ!」と言うためだけの数学も、私には虚栄に思えます。その延長線上にある「こんなにすごい論文を書いたぞ!こんなに有名な大学の教授になったぞ!どうだ!」というのも虚栄だと思います。数学以外の他の学問分野でも同じようなものだと直観的に思います。こう考えますと、意味のある数学とは、やはり論文や教科書を読み、なるほどなあと思うという、音楽鑑賞や文学作品を読むのに似た、芸能(芸術)としての数学だけが本質であるように、とくに最近の私には思えるのです。

今年に入ってからのニュースだと思いますが(現在、2026年2月5日)、AIが数学上の難問を解決する論文を書いたそうです。大学入試問題を解いたとかではなく、学問上の問題を解いたそうです。検証には時間がかかるでしょうが、アカデミックな世界から距離のある私には、そういうこともあるだろうというふうに見えています。昨年読んだ、東大数理の河東泰之先生の『数学者の思案』という最近の本にも、人間にできてコンピュータにできないことは何もないと強く信じていると書かれていましたし(字句通りの引用でなくてすみません。河東先生は知的活動に限定しておっしゃっていると思いますが。AIに手足はないので、AIに、具体的に物を運ぶ仕事、家を建てる仕事、作物を生産する仕事はできないと思います)、実際に、私がいま、25年ごしに出版しようとしている修士論文も、先行するいくつかの論文をAIに読ませたら、AIはササっと書きそうです。これは、数学者は仕事を失い、数学の終焉、あるいは、学問の終焉となるかもしれないわけです。

しかし、以下のようなことがあります。ごはんを食べることに、以下の2つの意味があります。体への栄養となり、明日への活力となること。そして、食べることのおいしさと喜びです。これは、生きる上での人間の喜びであり、単に「皿に乗っている食べ物をたいらげる」というところに意味があるわけではありません。(このことを素敵に描いた『ドラえもん』のマンガを読んだことがありますが、何巻のどの話か、とっさに出せません。)先ほどの「芸能としての数学」という観点からすると、数学を学び、理解する人間の喜びは、残るという気がするのです。

私も障害者です。人並みのことの多くができないながら、かろうじて、数学という仕事はして行こうと思う次第です。

目次