「ひとりも取り残さない」というより「ちょっとは取り残す」と言ったほうがいいのかもしれません

最近、インターネットで、感動するような記事に出会いました。楢戸ひかるさんというライターさんが書かれたもので、ご自身の子育てについて書いてあるものです。

楢戸さんのご次男は、発達障害を持っておられたそうです。楢戸さんは、なさけのある賢いお母さんでした。工夫に工夫を重ねて子育てをなさってこられました。困ったときはSOSを出す、子供さんが人に迷惑をかけていたらおわび。お子さんは「ふつう」を目指すのではなく、周囲から「あいつはちょっと変わっているな。しかし、いいところもあるし、まあいいのではないか」と思われるような状態を目指していたそうです。聖書の「人は皆、罪人である。ゆるされて生きる」というメッセージと、楢戸さんの「うちの子は迷惑をかけている。大目に見てもらって生きる」という姿が重なりました。お子さんは成人なさっているそうです。いまは支援を要しないそうです。これでお子さんがなんらかの才能を持っておられれば間違いなく発揮していくでしょうし、お子さんは間違いなく親孝行なお子さんになるでしょう。楢戸さんは20年をかけて、世界にひとりだけのお子さんと、ご自身も世界にひとりだけの母親として、世界で1回だけの子育てをなさったのでした。

楢戸さんが著者となっている本を買い求めました。しかし、その本は、どうも楢戸さんのよさがあまり発揮されていない気がしました。専門家が難しい用語を出し過ぎのようにも思えました。それで、思ったことがあるのです。

多様性という、よく聞く言葉があります。この言葉がよく聞かれること自体、世の中の多様性のなさを表しているとは前から思っていました。しかし、よく考えると、多様性というのは、みんないろいろで、違うということを意味しています。「多様性」という言葉でひとくくりにする時点で、すでに多様性ではないのではないか。どうも、多様性という言葉の持つ、根本的な危うさに気づいたのでした。

SDGsで、「ひとりも取り残さない」というそうですね。私なども「私を取り残すなー」と常々、言っておりますが、どうも取り残されてばかりおります。でも、ひとりも取り残さなかったら、先ほどの多様性の議論と同じで、みんな型にはまっているではないか。「ひとりも取り残さない」というスローガンは、それ自体が少し矛盾しているのかもしれません。「ひとりも取り残さない」というより「ちょっとは取り残す」と言ったほうがいいのかもしれません。「すべての人に健康と福祉を」というより「なるべく多くの人に健康と福祉を」にしたほうがいいのかもしれません。「質の高い教育をみんなに」というより「質の高い教育をなるべく多くの人に」と言ったほうがいいのかもしれません。

「また、杯を取り、感謝の祈りを唱えて、彼らにお渡しになった。彼らは皆その杯から飲んだ。そして、イエスは言われた。『これは、多くの人のために流されるわたしの血、契約の血である』」(新約聖書マルコによる福音書14章23、24節)。イエスも「すべての人のために」とは言いませんでした。「多くの人のために」と言いました。これは、福音書著者のマルコという人が賢いのでしょう。

「大丈夫。大概のことはなんとかなる」と大船に乗った人は言います。「絶対大丈夫」とは言いません。おおざっぱに生きて参りたいものです。

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