ある日の午前中のこと。日常的に起きる地獄落ち

きのうは、起きたのが午後2時でした。すごくよく眠ったのです。反動でしょうが、本日(2024年10月1日)は、午前8時半くらいに起きました。私のように、夜がおもな仕事の時間である人間としては、早めに起きた形です。とてもよく晴れていましたので、散歩に行くことにしました。家族のお使いで、徒歩45分くらいの神社の朔日(一日)の御朱印をもらいに出かけました。
私は歩くのが遅いです。だいぶ時間をかけてその神社に行きました。何回か行ったことのある神社でしたが、ある地下鉄の駅を過ぎたあたりで、ほんとうにその神社の近くに歩いて行っているのか、不安になりました。もしかしたら、とっくに通り過ぎたか、あるいは、あさってのほうへ歩いて行っていはしないか。私は、「誰でも行けるその神社に自分ひとりで行けない」ことと「たったいま、自分の部屋がどうしようもないほど散らかっている」ことを思い出し、地獄に落ちました。もう自分の人生は終わったかのような絶望におちいったのです。ちょっとおおげさな、と思われるかもしれませんが、これが私の日常です。だいぶ自分の恐れを言語化できるようになったと思います。
家族に電話しました。自分の向かう神社の方向はこれであっているのかどうか。しかし、私の電話は「助けてー」という悲鳴にはなりませんでした。厳しく人を断罪するような言いかたになってしまいました。私は地獄に落ちても、悲鳴も上げられないのです。(ここからわかることがあります。人のことを厳しく断罪する言いかたをする人は、しばしば地獄に落ちているところであり、しかも悲鳴すらあげることのできない人であること。)
神社に到着しました。私の向かっていた方向であっていたのです。それで、御朱印をもらいました。お参りをしなかったのは私の「やれと言われたことしかしない」障害特性の表れとも言えるでしょう。(しばしばやれと言われたこともできない。)
神社では、朔日ということで、縁日のようなものが行われており(いや朔日を縁日と言うのか)、さまざまな屋台等が出ていました。「みつばちバーヤ」という屋台の名前はおもしろいと思いました。なにも買わずに帰りました。
帰り、本屋さんに寄りました。ちょっと気になる本があったのです。私は朝が早すぎ、開店の10時の10分前に着いたので、10分をつぶして、開店と同時に店に入りました。キリスト教本屋大賞受賞だと聞いた最相葉月「証し」を手に取りたかったのです。珍しいことです。店員さんにキリスト教書の置いてあるところを聞くとき、また私は地獄に落ちそうになりましたが、場所を聞いて、本を見つけ、手に取りました。1000ページを超える部厚い本でした。ぱらぱら見て、すぐに書棚に戻し、再び帰り道に戻りました。
帰ったとき、郵便受けを見て、たくさんの手紙が届いているのを見て、またプチ地獄に落ちました。別に困るような手紙は一通も来ていないのですが、なぜかここでプチ地獄に落ちたのでした。
帰ってから家族に、縁日でなにも買ってこなかったことを言われて、確かにもったいないことをしたと思いました。せっかくこんな晴れている日に神社に行って、たくさん楽しそうな屋台が出ていて、なにも買って来ないなんて!これは、私がお金を無駄遣いしないようにしようと思ったせいでもあるのですが、こういうときは、お金を使うことがもったいないのではなくて、お金を使わないことのほうがもったいないことにも気づいて来たのです。過去の日記を見ても、自分がいたるところで「なにが最も幸せか」を見失っているのがよく見えます。いまだにやっていますね。本日はなにか買ってくるほうが楽しかったでしょう。
そして、神社に行ったのにお参りしなかったこと。いいんですけどね。ただ、参りました。神社には参らなかったものの、人生に参りました。この午前中の散歩だけで、2回も地獄に落ちているのですから。でも、このように言語化するようになったのは進歩だという気がします。この呪いからは永遠に脱出できない気もするのですが、しかし、何回か行ったことのある神社にたどりつかないかもしれないことと、同時に自分の部屋が散らかっていることを思い出しただけで、気が遠くなるような人生が一巻の終わりであるかのような地獄に落ちることは、私の日常でありました。いま、帰ってからブログを1本書いたあと、これを書いて、それで12時半となりました。以上です。
