ほんとうの「謙虚」、ほんとうの「ゆるし」

先日、親友の牧師の関智征(せき・ともゆき)さんから、校正のご依頼をお受けしました。関さんは、数年前から、「現役100歳クリスチャン医師」駿河敬次郎(するが・けいじろう)さん(以下、尊敬を込めて「駿河先生」と呼ばせていただきます)のドキュメンタリー映像を制作しておられました。それを大学の聖書の授業で学生さんに見せた感想をまとめたレポートの校正のご依頼でした。6,000字くらいでしたので、すぐに終わらせましたが、その内容が極めて興味深かったので、ここで皆さんとシェアしたいと思いました。
駿河先生は1920年のお生まれ、昨年(2023年)、102歳でお亡くなりになりました。現役のお医者さんでした。私は残念ながら駿河先生にお会いしたことはありませんが、ひとことで言うと、にこやかでとても謙虚な先生であったようです。以下、関さんの動画を見た学生さんの感想から、駿河先生のお人柄に迫りたいと思います。
学生さんの多くが触れていた点が、駿河先生のポリシーは「敵を作らない」ということであった、ということです。これは、私も自営業の初心者として、大切なことだと痛感するようになったことです。自分の言ったこと、やったことは、すべて自分に返ってくるということです。いいことをしても、悪口を言っても、必ず自分に返ってきます。ある学生さんが、駿河先生は多くの人が65歳で定年だとしても、そこから先、40年近く仕事をされた、と書いておられましたが、それだけ長く仕事ができるのは駿河先生の「敵を作らない」ポリシーによるものだと思われるのです。駿河先生は「自営業の鑑(かがみ)」であったのです。
また、多くの学生さんの触れていた点として、駿河先生はとても偉い先生なのに、謙虚だった、という点があります。自分がそんなに偉い医者だったら、いばってしまうかもしれないと書いていた学生さんもいたと思います。しかし、いばったり、自慢したり、ひとをバカにする人というのは、おそらく(幼少のころからおもに親から教え込まれたのか)「自分はダメだ」という刷り込みがあり、それゆえに常に自分を「上げ」続けねばならず、相対的にひとを下げたり、自分を上げたりする必要に迫られているのです。まるで昔話の「かちかち山」に出てくるたぬきが「どろぶね」に乗っているかのようです。これに対して駿河先生は、そのような自慢やマウント取りをする必要がなかった。おそらく(幼少のころからおもに親から)「お前はいい子」と言われて育ったのか、「大船に乗って」おられ、それゆえに謙虚だったと想像されるのです。
それから、ある学生さんは、駿河先生の部下のかたが、クリニックをつぶしかねないほどのミスをなさったときも、駿河先生は「人間ってそんなものだ」と言って、ゆるした、というエピソードに触れていました。これも、いわゆる「論破教信者」には考えられないことであり、駿河先生とはいい意味でどんぶり勘定のようなおおらかさのある、ひとをゆるせる人だったと考えられるのです。これも、駿河先生は、「大船に乗った」ような人だったことを意味するのではないか。
駿河先生の座右の銘は「一に敵なし、二に政治、三、四がなくて、五に実力」というものだったそうです。ここで言う「実力」とは、狭い意味での医師の実力、すなわち、診察の力とか手術の力などを指すのでしょうが、「医は仁術」と言いますから、じつはこの駿河先生の生き様のすべてを、広い意味での駿河先生の「実力」と言うこともできるのではないか、とも思います。
これを関さんは、「駿河先生のキリスト教精神」ということで、学生さんに映像作品で伝えているわけです。ここからわかることがあります。駿河先生の「謙虚」とか「ゆるし」という特徴はすべて「大船に乗っている」ことから来ていました。すなわち、これがほんとうの「謙虚」、ほんとうの「ゆるし」というものだったのです。すべては大船に乗っていることだった。これがほんとうの「キリスト教の精神」だったのです!
私はとくにインターネットの世界で「腹黒」に見えてしまっている面があると思います。それはほかならない、私が「どろぶね」に乗った人間であり、いつの間にか人を見下すような態度を取ってしまう浅はかな人間だからだろうと思います。私は20歳のときにキリスト教と出会い、25歳で信者となりましたが、ほんとうの意味で私が「どろぶね」から降り、「大船に乗れる」ときが真の私の「救い」の日なのでしょう。いつか私も駿河先生のようになれるかなあ…。
(関さんによる駿河先生のドキュメンタリーは現在、未完成のようです。完成したら、私も見せていただきたいと思っております。)
