みんな見ないで信じすぎ

今週の日曜日は、イースターでした。キリストの復活を祝う日です。だいたいこの時期になりますと、教会ではよく、復活のキリストが言ったとされる「見ないで信じる者は幸いである」(新約聖書ヨハネによる福音書20章29節)という言葉が聞かれます。本日のブログは、この言葉について、ふだん思うところを書きたいと思います。
「人を信じる」って、ちょっとあつかましいことだなあ、と、最近、感じています。いい意味ですけど。つまり、人を信用するのは、その人に助けてもらいたいからですよね?その人に頼りたいからですよね?これは。クリスチャンが神を信じるときにも言えることでして、神を信じるのは、神様に助けて欲しいからだと思います。神に頼っているのです。
さて、数学という学問は、徹底的に、「見ないと信じない」学問です。ある主張をするなら、それには根拠がないといけません。分数で割るとき、なぜ、分母と分子をひっくり返してかけるのか、理由が言えなくてはいけないのです。しかし、われわれは、見ないで信じすぎのところがあります。私も含めてですが。(決して悪い意味ではありませんよ!)
たとえば(前にも出した例ですみません)、トイレに入れば流れると「信じて」います。これは、「トイレにあつかましくしている」という言い方は普通しませんが、トイレに頼っているわけですよね。下水がどういう仕組みだかはわからないのですが…。
あるいは、生徒の皆さんとの、オンライン授業です。Zoomの仕組みはわかりませんが、全国にお住まいの皆さんと、通話ができます。たとえば私が住む地から東京は遠いですが、東京の生徒さんと、瞬間的に通話が成立します。もうどれだけの科学技術を信じて、どれほどの人に頼っているか、わかりません。実際に東京に行こうとしたら、歩いて行ける距離ではありませんので、電車に頼ることになります。歩いて行くにしましても、はだしで行くわけにいきませんので、くつに頼っています。私たちの生活は、人やものに頼ることなしに成立しないことを思わされます。
私は韓国に行ったことがありません。韓国という国の存在は、見ないで信じているのです。四国に行ったことは学生時代に1回だけあるのですが、あれも、飛行機で連れて行かれただけで、あそこが四国だったという確証はないわけです。
数学とは、数というものの限界を知る学問です。少なくとも、数が万能であることを言う学問ではありません。確かに、数が万能であると思っておられるかたは、数学がご専門でないかたに多い気がいたします。
これと同様に考えますと、数学という学問を追求していきますと、「見ないで信じる者は幸いである」という言葉に行きつくのかもしれませんね。私は「見ないで信じる者は幸いである」という言葉が大好きです。
