演奏会のツアー中、広島のホテルにステージ衣装のズボンを忘れた話

1995年、大学2年生だったころのことです。東大オーケストラの「サマーコンサート」と言われる、全国ツアーを伴う演奏会に出演いたしました。私は「へたくそ」で通っていました。実際、そのころはまだ、へたくそだったと思います。しかし、東大オケには「全乗り制」と言われる制度がありました。どんな団員も、最低、1曲は出番があるようにする、というルールでした。これによって、私は序曲1曲だけでしたが、このサマーコンサートにも出番があり、ツアーも参加できたのでした。東大オケには2年と1か月しかいませんでしたが、こうしてひととおりの行事に参加できたことは、いまとなってはありがたい経験ができたと感謝しております。そのうち、本日は、ツアー最終日の前の日に、ホテルにステージ衣装のズボンを忘れた話を書きたいと思います。
プログラムを書きたいと思います。
ヴェルディ 「ナブッコ」序曲
ショスタコーヴィチ 交響曲第9番変ホ長調
ベートーヴェン 交響曲第3番変ホ長調「英雄」
早川正昭(指揮)
以下、ベートーヴェンの「英雄」を「エロイカ」、ショスタコーヴィチを「タコ9」と書くことにいたしますね。「タコ9(たこきゅう)」というのは妙な略称ですが、当時、東大生はこの曲をタコ9と略していました。
エロイカにはトロンボーンおよびテューバがありません。したがって、先述の「全乗り制」からしまして、前半の2曲は、トロンボーンがとても活躍する曲に決まったというわけでした。
その全乗り制のおかげで、私はとてもへたながら、最初のヴェルディの「ナブッコ」序曲に参加できたのでした。2番フルート、ピッコロ持ち替えでした。アンコールも含め、この序曲だけが私の出番でした。このプログラムでもっぱら難しいのは「エロイカ」と「タコ9」ですので、練習のときも、かなりの時間を私は「降り番部屋」(控室)で過ごしたものでした。
本番は、以下の日程、以下の場所で行われました。
7月15日 習志野文化ホール(習志野)
7月20日 新宿文化センター(新宿)
7月27日 愛知県芸術劇場コンサートホール(名古屋)
7月29日 尼崎市総合文化センター(尼崎)
7月30日 広島郵便貯金ホール(広島)
7月31日 福岡郵便貯金ホール(福岡)
このように、この年は、東海道、山陽新幹線に沿ったようなルートのツアーがなされ、福岡が最終地だったのでした。いろいろな思い出がありますが、今回は、その最終日の前日の広島で、演奏会終了後、ホテルに、ステージ衣装のズボンを忘れてきてしまった、という話です。
これは、私によくあるそそっかしい話です。しかし、参りました。福岡で、私は、1曲目(「ナブッコ」序曲)が出番でない、背格好が同じくらいの仲間を探しました。ズボンを借りようと思ったのです。できれば、休憩後の、3曲目のエロイカだけの出演者が望ましい。しかし、どうしてもそういう人が見つからず、かろうじてズボンを貸してくれることになったのは、2曲目の「タコ9」だけが出番の友人でした。
福岡の本番で、私は「ナブッコ」序曲を演奏し、下手、すなわち客席から見て左側へ下がったわけですが、そこから猛ダッシュして、舞台の裏を走り、上手(客席から見て右側。彼のいるほう)へ行きました。そこでその友人は、楽器を手にして、パンツ一丁で待っていました。間に合った!いそいでズボンを下ろして彼がはきます。すぐに2曲目のタコ9となりました。こうして、どうにかこのズボンの件は落着したわけです。その彼にはほんとうに感謝です。
このツアーではいろいろなことを経験いたしましたが、これはとくによく覚えているエピソードです。
ツアーから帰ったのち、私は広島のホテルに電話をしました。ズボンを忘れたこと、および忘れた日を申しますと、送ってくださいました。きちんとクリーニングしてくださり、送料まで負担してくださいました。ありがたいことです。このとき思いました。「旅行に行ったら、最終日に、衣類はあえてすべてホテルに忘れてくるのがいいのだ」。しかし、さすがにこの案は、その後、1度も実行したことはありません。のちに、ホテルの掃除の仕事をしていた仲間に聞いてみたところ、そのような部屋があったら、たまげるとのことでした。
なお、指揮者の早川正昭先生は、時代に先駆けて、ベートーヴェンのエロイカで、非常に速いテンポをお取りになりました。いまでこそ世界的に常識となった演奏スタイルですが、その1995年と言いますのは、たとえばカラヤンが亡くなってまだたった6年、バーンスタインが亡くなってまだ5年弱です。演奏会のアンケートからも、お客さんの戸惑いの感じられるものがありました。早川先生は、時代の最先端を行っておられたのだ、と思わされます。
ともあれ、貴重な経験をいたしました。いい思い出です。
