真の我慢について、映画「魔女の宅急便」から考える

真の我慢(しなくちゃならない我慢)について、ジブリ映画「魔女の宅急便」の場面から考えます。(以下の「魔女の宅急便」のせりふは、記憶による引用であり、文字通りの引用でないことをおゆるしください。私もじつはこの映画にそんなに詳しくなく、付け焼刃の知識ですので・・。)
キキが風邪を引いています。「私は死んでしまう」とキキが言いますと、オソノさんが「はっはっは、ただの風邪だよ」と言います。オソノさんは「ほんとうにこの子は死んでしまうかも」と一瞬思ったかもしれませんが「はっはっは」と笑うことで、キキを励ましたのだと、私は最近ようやく気付きました。オソノさんは「親切」です。
そして、オソノさんは、食事を作って持ってきて「無理してでも食べなさい」と言いました。この場面ですが、無理してでも食べないとキキは死んでしまうかもしれず、食欲がないけれども無理して食べることによって、元気になれるわけです。変な想像かもしれませんが、ここで「無理してでも食べなさい」と言うオソノさんが、単に「我慢大会」としての「我慢」を強いているだけならオソノさんは「サド」であり、この我慢を、「我慢大会」としてひたすら食欲がないのに食べるとしたらキキは「マゾ」です。いま、おかしな想像をしました。この場面はそうではなく、あくまで、食欲がないのに無理してでも食べるのは「やせ我慢」ではなく、風邪を治すためにしなくちゃならない我慢です。真の忍耐であるわけで、がんばらねばならないところです。
一般に、おいしいものがたくさんあって、それをどんどん食べるのは、欲望のままに生きています。ただ、あまりたくさん食べるとおなかを壊すから、そろそろ食べるのをやめるとしたらそれは「理性」です。おいしいものをおいしいと感じるのも理性ですが、より大きな恵みである「おなかを壊したくない」という方に意識があって、それでそれ以上食べないという判断をするのも理性であるわけです。先ほどの「魔女の宅急便」の場面は、いまの例と「食べる」「食べない」が逆ですが、体調不良で食欲のないときにあえて食べるのは理性であるわけです。ここで食べないと死ぬかもしれず、食べれば元気になれると考えられるからです。
つまらない考察に思われるかもしれませんが、私は長いこと「しなくていい我慢」(すなわち「やせ我慢」)を人生でたくさんしてきてしまいましたので、いま、この映画の場面が心に突き刺さるのです。しなくていい我慢が見えたとき、する価値のある我慢も見えたのです。それは、より大きな恵みが待っている場合でした。すべては自分のためだったのです。
愛とは技術であり、技術であるからには訓練が必要になるということを、「愛するということ」のなかでエーリッヒ・フロムさんが書いておられました。思いやりは訓練で育つといいます。「学びてときにこれを習う、亦(ま)た説(よろこ)ばしからずや」と孔子は論語の冒頭で言いますが、勉強が楽しいという、その勉強とは広く生きること全般であり、生きることが楽しいと思えること(すなわち理性のはたらき)を言っています。それで、勉強には訓練の要素があることは広く知られています。(私が算数・数学教室をやっていることとすぐに結びつけないでくださったらありがたいです!数学も「生きるための数学」であり、広く生きることそのものが勉強です。)キキも、十三歳で魔女の修行に来ているところで、さまざまな制約のなか知らない町で奮闘する様子が映画に描かれています。孔子も、十有五(数え年で十五歳)のときに学に志しています。吉野源三郎「君たちはどう生きるか」のコペル君も十五歳です。
私が「中二病」という言い方を知ったころ、私はいくつになっても精神年齢が中学2年生くらいであることに気づかされました。永遠の中二病にも思えたのですが、最近ようやく、とらわれから脱しつつあり、精神年齢が十五歳くらいになって来ました。実年齢は49歳、体はぼろぼろですが、遅い青春です。「我慢」「忍耐」「辛抱」等の真の意味をようやく認識しつつあります。私にとって長いこと「我慢」は「我慢大会」というゲームでした。真の我慢をする人間でありたいです。
(※ 「君たちはどう生きるか」についても、いつか書きますよ!)
