disabled(できない、障害)はdifferently abled(異なった能力を持つ)

私がはじめて表題の表現を知ったのが、2018年の5月、教会での説教ででした。「disabled」、すなわち「できない」ということを意味する「障害、障害者」という言いかたを、「differently abled」、すなわち「異なったことができる」というふうに言い換える言いかたです。2016年、40歳のときに障害者の診断のくだった私は、自分のこととしてとらえました。私なりに言語化できる現象は、以下の3つです。

ひとつ目が、ベートーヴェンです。ベートーヴェンはよく「耳が聴こえないのに、あんなに名曲を書いた、すごい」と言われます。しかし、私には、ベートーヴェンは「耳が聴こえないのに名曲を書いた」というよりも、「耳が聴こえないからこそ書ける名曲がある」というふうに思えています。いかがでしょうか。もしベートーヴェンの耳が聴こえていたら、「運命」だの「第九」だのという名曲をベートーヴェンは書いていたでしょうか。もっと平凡な作曲家だったのではないか、という気は、直感でもいたします。

(ただ、本人を目の前にしてこれを言ったら、怒られたかもしれませんけどね。「オレは耳が聴こえていたら、もっと名曲が書けるのだ!」と怒られたかもしれません。)

ふたつ目が、星野富弘さんです。星野さんは、今年、2024年に惜しまれつつ亡くなった画家、詩人です。星野さんは、中学の体育の教師となって数か月で、事故で首から下がまったく動かない体となられました。しかし、紆余曲折のすえ、星野さんは、口に絵筆をくわえて、絵や詩をかくようになられました。星野さんの絵や詩の才能は、その事故がなければ開花しなかったでしょう。事故にならなければ、星野さんは、一生、中学の体育の先生として暮らしたと考えられます。どちらがよかったのかは、天国の星野さんに聞かないとわからないですけれども。しかし、私は星野さんのかかれた絵や詩に感銘を受けます。

みっつ目が、皆さんご存じ、私です。ベートーヴェン、星野富弘さんと、偉大な人と並べてはなはだ僭越な感じではありますが、私の才能は、発達障害ゆえであることは、私のブログを続けてお読みくださっているかたには明らかにお分かりになることではないかと考えられます。一例をあげますと、私はしばしば「独自の視点」を持つと言われます。これは褒め言葉ですが、これが裏目に出るとき、「誤解」や「すれ違い」のもととなります。「障害」なのです。また、私は空気が読めません。「それくらいのことはわかるだろ!」ということがわからないのです。その代わり、物事を論理的に捉えることができて、おそらくそれで私は数学が得意なのです。つまり、私が、勉強ができることは、障害特性だったのです。これはよく感じます。

この、私の特徴については、私自身より、皆さんのほうがよくお気づきでしょう。自分で自分のことはよくわからないものです。

というわけで、differently abled という言いかたは、単に「障害者」という言いかたを避けた、「不自然な」用語というものを超えて、私自身の実感を伴う言葉となっています。以上です!

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