「聖書は昔のテレビ?」Ⅲ「昔は神が『常識』だった」

私の「聖書テレビ論」は何度かこのブログにも書いていると思います。聖書はテレビのなかった時代のテレビかマンガかインターネットか何かであったという説です。本日の記事は、その個々の例を挙げるものではなく「それでも現代の人が聖書を読んで『これは神についての本だ』と感じる理由」について書きたいと思います。
(個々の「聖書は昔のテレビだ」という説を支える現象を書いた記事としては、最後に「Ⅰ」と「Ⅱ」の記事のリンクをはりますね。あと聖書についての講演会の原稿。)
聖書というのは、読めば読むほど、出てくる人間が、現代のわれわれと何も変わらない、ということを痛感させられる本でもあります。ほんとうに聖書の登場人物は、現代のわれわれとなにも変わりません。では、聖書の時代といまと、なにが違うかと言いますと、神を信じていた人の割合です。昔の人にとっては神というのは、いて当たり前であった。ここまで神を信じる人が多数派だと、神は「常識」になってしまう。聖書は、神が「常識」であった時代の書物なのです。
現代のわれわれにとって、東京駅で新幹線に乗ったら寝ていても博多に着くこと、また、Zoomを使うと、距離の離れた人とも話せて混線しないこと、などは、仕組みはわからなくても「常識」であると考えられます。同様に、聖書の時代の人にとって、神は常識でありました。「多くの人が暗黙のうちに共通して了解しているもの」(=常識)。聖書に「あなたは神を信じますか」という言葉は出ません。神はいて当然だからです。
そのような聖書において、たとえば現代であれば「がんばって」と励ますところで「主を信頼し」などと書いてあったりします。これを現代の人が読むから「聖書って神様の本だ」と思う、という次第なのです。
だから、やっぱり聖書は昔のテレビです。いまのテレビでこんなに「主」だの「神」だの出て来ませんが、それは、聖書の時代は神が常識であったからにほかならないのです。
この「聖書テレビ説」に気が付いて、私のなかで、いわゆる「資料仮説」のようなものは、あらかた意味のないものになりました。創世記の1章と2章は資料が違う、というような仮説です。高校の「数学A」の教科書の「まえがき」に「作図の問題は、決められたルールで定規とコンパスだけを使うゲームです」とあります。しかし、たとえば角の三等分線が作図できないこと、与えられた立方体の倍の体積の立方体が作図できないこと、などの証明は、ガロア理論のような、それらの現象を外から見る理論の登場を待たねばなりませんでした。ひたすら作図の研究をしていても決してわからないことなのです。思わず自分をガロアになぞらえてしまって極めて不遜ですが、私にとっての聖書テレビ説は、そのような意味を持ちます。
しかし、ちょっと思うのは、ここで私が現代の聖書学者の誰かに電話をして「聖書は昔のテレビですよね?」と聞いたら、「当たり前でしょう」と言われる可能性です。ほんとうの専門家にとっては言わずもがななのかもしれません。聖書テレビ説。
(最後に過去の記事を3つはりますね。「聖書は昔のテレビ?」の「Ⅰ」と「Ⅱ」、それから、聖書についての2024年夏の講演会の原稿です。)



