「聖書は昔のテレビ?」Ⅱ「ゴジラ×コング 新たなる帝国」

以前、聖書は昔のテレビであるという私の論を書かせていただきました。最近、それを裏付ける事例がまた出て参りましたので、3つほど、書きたいと思います。
先日、あるスポーツ選手のスキャンダルが話題となっているようでした。私はあまりスポーツに関心がなく、よく見ていないのですが、人気者のスキャンダルは話題となるようで、マスコミがいっしょうけんめい探してくるのだろうなあ、という思いで見ていました。それで気づいたことがあるのです。聖書もそうではないか。ダビデという王が出てくるが、ダビデは人妻を妊娠させ、さらにその夫を戦地に送って戦死させるというスキャンダルが書いてあるではないか。
ダビデは一代で王になりました。一代で太閤になった豊臣秀吉、一代で総理大臣になった田中角栄さんのようなものなのです。もともとは羊飼いの八男(もしくは七男)として生まれたのであり、竪琴を弾くのがうまかったのか、サウル王の前で竪琴を弾くようになり、ゴリアトを石1個で倒し、どんどん頭角を現して行きます。そして一代で王となるのです。その絶頂期に、先述のスキャンダルが書いてある。やはり、聖書というのは昔の週刊誌かなにかみたいな役割を果たしていたのは本当らしいです。
2つ目です。これも最近、気付いたことで、聖書が昔のテレビだとすると、詩編というのは、「歌番組」であった、という点です。歌番組は人気があります。聖書のなかで最もページ数が割かれているのが「詩編」です。なるほど、確かに「詩編は昔の讃美歌集であった」というよく聞く説明では納得できない点(ひとつひとつが長いこと、それ以上に、感情を赤裸々に歌ったものが詩編には多いこと)が、「詩編は昔の歌番組であった」ということによって、だいぶ私は腑に落ちます。
これも詩編をバカにしているのではありません。「歌は世につれ、世は歌につれ」と言います。歌のある言葉に支えられて長い人生を歩んでいる人の話はときどき聞きますよね。「スラムダンク」にときどき名言が出るように、歌にもしばしば「名言」が出ます。「どんなときも どんなときも ぼくがぼくらしくあるために 好きなものは好きと言える気持ち抱きしめてたい」ひとつ古い歌で実例を挙げましたが、こういう「光る言葉」がたまにあるのが歌です。歌はバカになりません。これが「詩編」であったわけです。
もうひとつが、以下の点です。
最近「ゴジラ×コング 新たなる帝国」という映画のチラシを見ました。本稿執筆時点で来月(2024年4月)に公開される映画のようですね。このチラシを見た瞬間に思ったことがあります。「黙示録の竜と獣だ!」
聖書の最後に、「ヨハネの黙示録」というものが載っています。たいへんな化け物がたくさん出てきます。頭が7つ、角が10本ある竜。年老いた蛇。海から上がって来た獣。大淫婦(だいいんぷ)。黙示録の後半になればなるほどたいへんです。これはまさに怪獣映画だと気づいたのです。
怪獣映画を見る人も、よくは知りませんが、おそらく最後は平和が訪れて、ハッピーエンドになることを期待して見るのでしょう。黙示録もそうです。もうどうなるかわからないほど、怪獣が暴れ回ります。でも、最後の最後で大淫婦は徹底的に裁かれて、新しい天と新しい地が来て、聖書はハッピーエンドを迎えます。昔話で言えば、「桃太郎」もそうです。桃太郎の後半は、鬼退治がテーマとなります。鬼が島で鬼が暴れているのです。桃太郎は、犬、猿、きじを連れて鬼退治に行きます。鬼は金棒を振り回して暴れます。私が小さいころ見ていた「宇宙刑事シャリバン」では、番組の最後のほうで必ず敵が「幻夢界(げんむかい)に引きずり込め!」と言います。そしてシャリバンは幻夢界で敵を倒してハッピーエンドとなるのです。桃太郎の鬼も、最後には、犬、猿、きじとともに桃太郎に征伐され、桃太郎は、金、銀、さんごを持って、おじいさん、おばあさんのところに凱旋します。日本一!
聖書の最後、ヨハネの黙示録の18章で徹底的に裁かれる大淫婦とは、「どろぶね」の象徴です。最後の最後でどろぶねは滅び、究極に大らかな天の父である神の国が到来するのです!
大淫婦は心の中でこう言っています。「わたしは、女王の座に着いており、やもめなどではない。決して悲しい目に遭いはしない」(新約聖書ヨハネの黙示録18章7節)。これは典型的にどろぶねに乗った人の特徴であり、自分がどろぶねに乗っていて、生まれてからずっと針山地獄の上を歩いていて、常に不幸であり、裁かれ続けていることに気が付かないのです。こんなにはっきり聖書に「どろぶね」のことが書いてあるとは!
というわけで、聖書はやはり、昔のテレビか週刊誌か映画だったのです。天地創造から始まる、2000ページに及ぶ長大な映画です。私はその映画を計17回も見た(聖書を17回、通読した)「映画マニア」なのです。
私は2年と少し前、仕事を失いました。激動の2年でした。人生経験が深まりました。ここ数か月でも意識の変化がありました。自営業の基礎にようやく立ち始めました。本稿執筆時点の本日2024年3月30日、新たに聖書の通読を始めました。18回目です。いま読んだら、聖書がまったく違うように読めるのではないか。先月、ランパルの自伝を読んだときも、いままでとはまったく違う側面から読めました。自分の世界が異様に狭いことを自覚した私は、このところ、いろいろな人から「おすすめの本」を募っていましたが、結局、私の読むべき本は、「聖書」だったのです。どのような新発見があるか、わくわくします。同時に、1996年8月23日からつけている日記や、あるかたからすすめていただいたマンガなど、いくつかのものを並行して読み進め始めています。
最後に、「聖書は昔のテレビ?」という記事の初回、および、聖書は昔のテレビである論から広げた「なぜ嫌な人ほど出世するのですか?」という記事のリンクをはって終わりにいたしますね。よろしければそちらもどうぞお読みくださいね!


