「勉強とはすなわちテスト勉強である」という暗黙の前提の生じやすい原因とは

なぜ、「勉強とはすなわちテスト勉強である(勉強=テスト勉強)」という暗黙の前提が生じやすいのか、その理由が少し思い至りましたので、うまく書けるかどうかわかりませんが、書いてみますね。

私が小さいころから、電卓はありました。そのころは電卓と言わず「計算機」と言っていた気がしますけれども(パソコンが普及してから電卓というようになった気がいたします)。私が小さいころからありましたので、例として不適切かもしれませんが、おそらく電卓のなかった時代は、筆算とは必須の能力だったのではないでしょうか。しかし、電卓がある以上、筆算をする意味があまり感じられなくなったとも言えます。そこで、筆算とはなんのために習うのかという理由が不鮮明となり、「筆算とはテスト勉強のためにやるのだ」という暗黙の前提となったのではないでしょうか。どうもうまく伝わらない話で恐縮です。

別の例を挙げましょう。私が小さいころは、インターネット検索がありませんでした。かつては、なにかを調べるときは、辞書を引いたり、百科事典を引いたり、図書館で調べたりしていました。いまはインターネット検索で調べられます。これも「なんのために調べるのか」という意味が希薄になってきたと言えるかもしれません。皆さん検索なさるから。そこで、これも「勉強=テスト勉強」という暗黙の前提が強まったのではないでしょうか。どうもうまく伝わっているかこころもとないです。すみません。

もっと言いますと、わからないことはAIに聞けばいい時代になったのでしょう?私はAIの使い方はわかりませんが、わからないことはAIに聞けばいい時代となりました。「考える」ことの意味もわからなくなりつつあります。にもかかわらずやらされる学校の勉強は、テストのためなのではないでしょうか。

漢字の書き取りも、いまは変換があります。にもかかわらず漢字の書き取りの勉強をするのは、テストのためではなかろうか。

同様なことは、理科の実験などにも言えますね。

昔は、関数のグラフのおおまかな形を知りたければ、本当に微分して増減表を書いていたのでしょう?いまはソフトで書けてしまいますからね…。

というわけで、なんのために勉強するのか、わかりづらい世の中になってきたと感じます。にもかかわらず学校では勉強させられますので、それはなんのためかと言いますと、多くの人が暗黙のうちに、テストのためだと考えておられるのではないでしょうか。

私が教員だった時代に、学年通信に「日々、受験勉強」と書いた先生がおられました。毎日の勉強の積み重ねが受験勉強につながっていると書きたかったのでしょうが、これこそが、勉強とはテスト勉強であるという認識が端的に表れた例ではないかといまにして思ったりいたします。

幼少のころ読んだエッセイを思い出します。その著者のかたは、小さいころ、なぜテストで、隣の人はわかっているのに、隣の人に聞いてはいけないか、ほんとうにわからなかったそうです。確かにそうですね。隣の人がわかっていて、自分がわからないなら、その人に聞けばいいのです。逆に、自分がわかっていて隣の人がわかっていなかったら、教えてあげればよいのです。それがなぜか禁じられているのがテストであるわけです。

これが、私の思う「勉強とはすなわちテスト勉強である」という暗黙の前提のもとにある原因です。伝わりましたかね?はなはだ心もとないです。こんなブログ記事ですみませんね…。

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